朝日日本歴史人物事典 「赤松義村」の解説
赤松義村
生年:生年不詳
戦国時代の武将。則村の長男範資の裔七条政資の子。播磨・備前・美作守護。幼名道祖松丸。通称次郎。兵部少輔。赤松政則の娘松御料人と結婚し,明応5(1496)年政則の没後,惣領家を継いだ。しかし領国支配の実権は,ほとんど政則の未亡人洞松院と老臣浦上則宗に握られていた。永正5(1508)年ごろより前将軍足利義澄の子亀王丸(義晴)を養育して義澄,細川澄元と結び,将軍足利義稙,細川高国を支持する洞松院と対立した。次いで浦上村宗(則宗の孫)とも対立して抗争した。永正17年出家して性因と名乗ったが,大永1(1521)年,村宗によって播磨室津に幽閉されたのち殺害された。
(榎原雅治)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報