足利義館跡(読み)あしかがよしあきらやかたあと

日本歴史地名大系 「足利義館跡」の解説

足利義館跡
あしかがよしあきらやかたあと

「師守記」貞治三年(一三六四)八月一〇日条に「今日鎌倉大納言(足利義詮)可立宿所地破之云々、三条坊門(万脱)小路与冨小路間四町々云々大樹(足利義詮)被渡之、乗車云々」とある。三条坊門、万里小路東、富小路西の方一町が三条坊門第ともよばれ、義満の代になっても室町御所(花の御所)ができるまでは幕府とされた足利義詮館である。この史料のみでは三条坊門小路の南北が不明であるが、後に同館が足利義持館になる事から考えてみて、三条坊門南と思われ、これは現松下まつした町・柳八幡やなぎはちまん町の全域と東八幡ひがしはちまん町・菊屋きくや町の一部にあたる。

この館の造営については「師守記」に詳しく、八月一一日条に「今朝三条坊門万里小路武家第釿始柱立云々、番匠大工衣冠云々、執事治部大輔義将(斯波)渡之、件寝殿修理大夫(斯波高経)入道越前宿所壊寄云々」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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