足利義詮(読み)あしかがよしあきら

精選版 日本国語大辞典 「足利義詮」の意味・読み・例文・類語

あしかが‐よしあきら【足利義詮】

室町幕府第二代将軍。尊氏の子。坊門殿と称せられた。新田義貞とともに鎌倉を攻めて北条氏を滅ぼし、以後東国平定尽力。延文三=正平一三年(一三五八)一二月、将軍に補せられた。元徳二~貞治六=正平二二年(一三三〇‐六七

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デジタル大辞泉 「足利義詮」の意味・読み・例文・類語

あしかが‐よしあきら【足利義詮】

[1330~1367]室町幕府第2代将軍。在職1359~1367。尊氏の子。尊氏の名代として、新田義貞の鎌倉攻めに参加。尊氏の死後、正平13=延文3年12月(1359年1月)将軍となった。

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百科事典マイペディア 「足利義詮」の意味・わかりやすい解説

足利義詮【あしかがよしあきら】

室町幕府2代将軍。尊氏の三男。1349年叔父直義と執事高師直との間で争いとなり,尊氏は義詮を京によび直義に代わって政務をとらせた。そのため尊氏と直義の対立が激化,尊氏と義詮は直義を討つが,その後も直義の後を継いだ直冬や南朝勢力と合戦が繰り返され,1355年直冬党を京から退けた。1358年尊氏死去,義詮が征夷大将軍となると,有力守護が勢力争いを始め,また執事細川清氏らが離反するなど,混乱が生じた。1362年義詮は斯波義将を執事に任命,翌年には大内弘世山名時氏が帰参し安定に向かったが,1367年病により家督を嫡子義満に譲った。
→関連項目上杉憲顕高師冬後光厳天皇倭文荘杣山城

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朝日日本歴史人物事典 「足利義詮」の解説

足利義詮

没年:貞治6/正平22.12.7(1367.12.28)
生年:元徳2(1330)
室町幕府第2代将軍。鎌倉に生まれる。尊氏の3男,母は北条久時の娘赤橋登子。幼名千寿王。正慶2/元弘3(1333)年の元弘の乱で尊氏が西上すると人質として母と共に鎌倉に抑留,のち下野に逃れ,新田義貞の鎌倉攻めには4歳の幼児ながら尊氏の名代として参軍,以後鎌倉で少年期を過ごした。観応1/正平5(1350)年に観応の擾乱が始まり,執政の叔父足利直義が失脚すると,講和条件に従って入京し政務を執る。翌年直義が反撃して入京すると丹波に逃れ,続いて直義が北陸に脱出すると父尊氏と共に南朝に下った(正平一統)。次いで尊氏は直義を討つため東下し,京都の守備を任されたが,翌年2月南軍は約を破って京都に侵入し,男山での激戦ののち神器と3上皇を奪って賀名生に逃げた。これに対して義詮は,後伏見の中宮西園寺寧子を治天に推して彼女の孫弥仁(後光厳)を天皇に擁立,直冬党や北陸山陰の南軍を抑えて小康状態を回復した。延文3/正平13年4月には父の死を受けて将軍に任官。観応以来しばしば南軍に京都占拠を許したがいずれも短期間に撃退,執事細川清氏失脚ののちは斯波高経を登用し,貞治2/正平18年には大内弘世,山名時氏を帰服させて中国地方を統一した。晩年は四国管領細川頼之招き,幼少の後継足利義満の補佐を託した。状況主義者として一度ならず京都を放棄したが,神器も上皇も欠いたまま北朝の再建を果たし,南北朝動乱を北朝優勢に導いた功績は大きい。

(今谷明)

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改訂新版 世界大百科事典 「足利義詮」の意味・わかりやすい解説

足利義詮 (あしかがよしあきら)
生没年:1330-67(元徳2-正平22・貞治6)

室町幕府2代将軍。尊氏の三男。1335年(建武2)尊氏,叔父直義が建武政府を攻め上京したのちも,鎌倉に残り東国を統治する。49年(正平4・貞和5)尊氏の執事高師直と直義が対立すると,尊氏は義詮を召喚し直義の代行をさせたが,この対立は尊氏と直義の抗争に発展した。52年(正平7・文和1)尊氏・義詮は南朝に降るが,直義を討つやこれと決別,直義の養子直冬や南朝と京都の争奪戦を繰り返した。58年(正平13・延文3)尊氏が没し義詮が征夷大将軍となると,仁木義長や細川清氏が離反したが,62年(正平17・貞治1)斯波義将を執事に任命,翌年山陽の大内弘世や山陰の山名時氏が帰参し安定期を迎える。また義詮は引付を縮小し自身の親裁権を拡大したが,それに応じ執事の権限が強化され執事は管領となった。66年義将失脚ののち親裁を行うが,翌年11月政務を嫡子義満に譲り管領細川頼之に補佐せしめ,12月7日病没した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「足利義詮」の意味・わかりやすい解説

足利義詮
あしかがよしあきら
(1330―1367)

室町幕府第2代将軍。幼名千寿王。尊氏(たかうじ)の子。1333年(元弘3・正慶2)新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉攻略に一族を率いて参加。鎌倉幕府滅亡後義詮は鎌倉にとどまり、下向した足利直義(ただよし)とともに東国経営に携わる。建武政権崩壊後、北畠顕家(きたばたけあきいえ)によって一時鎌倉を追われたが回復し、関東を足利方の拠点とすることに成功する。1349年(正平4・貞和5)尊氏、高師直(こうのもろなお)と直義との間に不和が生じたとき上洛(じょうらく)し、直義にかわって政務をとった。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)中は畿内(きない)各地を転戦し、直義方、南朝軍と京都争奪戦を展開した。1358年(正平13・延文3)尊氏が死去すると、その後を継いで征夷(せいい)大将軍となり室町幕府の基礎を固めた。1367年12月7日病没した。法号は宝篋院道惟瑞山(ほうきょういんどういずいざん)。贈左大臣従(じゅ)一位。

[伊藤喜良]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「足利義詮」の意味・わかりやすい解説

足利義詮
あしかがよしあきら

[生]元徳2(1330).6.18.
[没]正平22=貞治6(1367).12.7. 京都
室町幕府2代将軍 (在職 1358~67) 。尊氏の子。母は赤橋登子。坊門殿という。元弘3=正慶2 (1333) 年尊氏西上の際,人質として鎌倉におかれた。尊氏が後醍醐天皇側に寝返ると下野 (しもつけ) に走り,次いで新田義貞の鎌倉攻めに加わり,北条氏を滅ぼして鎌倉に入った。建武2 (35) 年尊氏が建武政府にそむき,南北朝の動乱が始ると,義詮は足利軍の関東における軍事統率者として鎌倉を守った。興国5=康永3 (44) 年左馬頭。正平4=貞和5 (49) 年尊氏,直義兄弟の不和により,尊氏の命を受けて上京,父の政務を助けた。正平 13=延文3 (58) 年将軍となり,正平 18=貞治2 (63) 年権大納言。正平 22=貞治6 (67) 年正二位。南朝方とのやむことなき戦いのなかに死んだ。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「足利義詮」の解説

足利義詮
あしかがよしあきら

1330.6.18~67.12.7

室町幕府の2代将軍(1358.12.8~67.12.7)。初代尊氏の三男。母は赤橋登子。幼名千寿王。法名宝篋(ほうきょう)院瑞山道権。正二位権大納言・贈従一位左大臣。1333年(元弘3)父の名代として新田義貞とともに鎌倉攻めに参加。以後も鎌倉に留まって関東を掌握した。49年(貞和5・正平4)叔父直義(ただよし)にかわって政務をとるため上洛。51年(観応2・正平6)父とともにいったん南朝に降るが,翌年南朝軍を男山合戦で破り,後光厳(ごこうごん)天皇を践祚(せんそ)させた。その後3度にわたって南朝の京都占拠を撃退。尊氏の死後将軍となり,斯波義将(しばよしゆき)を執事として幕政の安定をはかり,63年(貞治2・正平18)大内・山名両氏を帰服させた。67年,死に臨んで幼少の嫡子義満に家督を譲り,細川頼之を管領に任じ後事を託した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「足利義詮」の解説

足利義詮 あしかが-よしあきら

1330-1367 室町幕府2代将軍。在職1359*-67。
元徳2年6月18日生まれ。足利尊氏の子。母は北条登子(とうし)。新田義貞(よしさだ)の鎌倉攻めに参加,鎌倉幕府崩壊後も鎌倉にとどまる。のち叔父足利直義(ただよし)にかわり京都で幕府の政務をとる。異母兄足利直冬(ただふゆ)軍や南朝軍と京都争奪戦をくりかえすなか,父の死により延文3=正平(しょうへい)13年将軍職をつぎ,南朝軍を撃退して政権を安定させた。貞治(じょうじ)6=正平22年12月7日死去。38歳。幼名は千寿王丸。法号は宝篋院(ほうきょういん)。

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旺文社日本史事典 三訂版 「足利義詮」の解説

足利義詮
あしかがよしあきら

1330〜67
室町幕府2代将軍(在職1358〜67)
尊氏の嫡子。義満の父。1333年新田義貞の鎌倉攻めに父の名代として加わり,北条氏を滅ぼした。尊氏の幕府開設後も関東の主として鎌倉にあり,尊氏の死後 '58年将軍となった。

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367日誕生日大事典 「足利義詮」の解説

足利義詮 (あしかがよしあきら)

生年月日:1330年6月18日
南北朝時代の室町幕府第2代の将軍
1367年没

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世界大百科事典(旧版)内の足利義詮の言及

【近江国】より

…旧国名。江州。現在の滋賀県にあたる。
【古代】
 東山道に属する大国(《延喜式》)。〈淡海〉〈近淡海(ちかつおうみ)〉とも表記される。滋賀,栗太,甲賀,野洲,蒲生,神崎,愛智,犬上,坂田,浅井,伊香,高島の12郡からなる。《延喜式》のほか738年(天平10)の〈上階官人歴名〉(《正倉院文書》)によって当時も大国であったことが判明する。国衙跡が大津市瀬田神領町の三大寺丘陵で発掘され,国府域は方8町の四周に半町の外縁がめぐっていたと考えられている。…

【鎌倉公方】より

…室町幕府による東国支配のために鎌倉に置かれた政庁である鎌倉府の長官。関東公方(くぼう)ともいう。足利氏の東国支配は,1333年(元弘3)12月建武政権下で足利直義が〈関東十ヵ国〉(相模,武蔵,上野,下野,上総,下総,安房,常陸,伊豆,甲斐)の支配をゆだねられ後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入ったことにはじまる(鎌倉将軍府)。足利尊氏は,36年(延元1∥建武3)11月京都に幕府を開いたが,その嫡子義詮を鎌倉にとどめ,これを〈鎌倉御所(鎌倉公方)〉とし,そのもとに関東管領を配置して東国の政治一般にあたらせた。…

※「足利義詮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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