野郡
かどのぐん
「和名抄」は高山寺本に「カトノ」、刊本郡部に「加止乃」と訓ず。橋頭・大岡・山田・川辺・葛野・川嶋(刊本、島)・上林・櫟原・高田・下林・綿代(刊本、緜)・田邑の一二郷より成り(和名抄)、およそ京都盆地の西北部分にあたる。全域現京都市域。
郡名の文献上の初出は、「日本書紀」にある応神天皇の
<資料は省略されています>
という国秀の歌である(応神天皇六年二月条)。これは宇遅野(宇治野)で詠まれた歌とされており、宇治(現宇治市)の辺りから西北方を望見して作歌されたもので、この葛野は後の葛野郡域だけではなく、広く北山城一帯を示すものと考えられる。
本郡を早く開拓したのは、渡来系氏族秦氏である。「秦氏本系帳」(政事要略)には「造葛野大堰、於天下誰有比検、是秦氏率催種類所造
之」とあり、葛野の地に堰堤を造ったことが知られる。これによって郡域を農耕可能地としたのである。その位置は不明であるが、桂川上流の渡月橋(現右京区)近辺と推定され、いまもこの付近の桂川を大堰川とよぶのは葛野大堰が築かれていたからである。この大堰は「雑令」集解古記に「葛野川堰」とみえており、歴史的に実在していたことが確かめられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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