聖徳太子(読み)しょうとくたいし

精選版 日本国語大辞典 「聖徳太子」の意味・読み・例文・類語

しょうとく‐たいし シャウトク‥【聖徳太子】

[1] 用明天皇の第二皇子。母は穴穂部間人王。名は厩戸豊聰耳皇子。聖徳太子は諡名。上宮王ともいう。推古天皇の摂政として蘇我馬子とともに内政・外交に尽力した。六〇三年、冠位十二階を、六〇四年、十七条憲法を制定した。六〇七年小野妹子を遣隋使として派遣して隋と国交を開き、先進国の文物を輸入した。また、仏教興隆につとめて、法隆寺、四天王寺を建立し、仏典の注釈として、勝鬘、維摩、法華の三経の「義疏」を著した。また六二〇年蘇我馬子と天皇記・国記を編んだ。さまざまに伝説化されて、太子信仰を生み今日に至るまでその行跡が伝えられている。推古三〇年(六二二)没。
[2] 〘名〙 聖徳太子の肖像が刷り込まれている紙幣の俗称。かつては千円札をさし、後には五千円札と一万円札とがあったが、主に一万円札をさした。

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デジタル大辞泉 「聖徳太子」の意味・読み・例文・類語

しょうとく‐たいし〔シヤウトク‐〕【聖徳太子】

[574~622]用明天皇の皇子。名は厩戸うまやど皇子。豊聡耳とよとみみ皇子・上宮じょうぐう太子ともいう。叔母推古天皇の摂政として内政・外交に尽力。冠位十二階憲法十七条を制定して集権的官僚国家の基礎をつくり、遣隋使を派遣して大陸文化の導入に努めた。また、「三経義疏さんぎょうぎしょ」を著し、法隆寺四天王寺などを建立して仏教の興隆に尽くした。

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改訂新版 世界大百科事典 「聖徳太子」の意味・わかりやすい解説

聖徳太子 (しょうとくたいし)
生没年:?-622(推古30)

6世紀末~7世紀前半の政治家,仏教文化推進者。用明天皇の皇子で母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后(欽明天皇皇女)。生年は《上宮聖徳法王帝説》に甲午年(574)とあるが確かでない。幼名を厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)皇子といい,のちに上宮聖王,聖徳王,法大王(のりのおおきみ),法主王などとも呼ばれた。聖徳太子の称は《懐風藻》の序文(751)が初見。初め上宮(うえのみや)に住み,後に斑鳩宮(いかるがのみや)(いまの法隆寺東院の地)に移ったというが,14,15歳のころ蘇我馬子の軍に加わって物部守屋を討ち,そのとき四天王に祈念して勝利を得たので,のちに難波に四天王寺を建立したという。《日本書紀》によれば,592年(崇峻5)11月に馬子が崇峻天皇を殺すと,翌月に推古女帝(敏達天皇皇后)が即位し,翌年(推古1)4月に太子を皇太子にして万機を摂政させたというが,この時期はまだ大兄(おおえ)の制が行われており,単一の皇位継承予定者である中国的な皇太子の制がすでに存在したかどうかは疑わしく,《日本書紀》以前に太子のことを太子と記した確かな史料もほとんどない。また太子の執政をもって積極的な皇権回復策とする見方もあるが,推古天皇の即位は崇峻天皇の暗殺という異常な事態の下で行われたことであり,女帝即位の初例であったためとみるのが妥当である。この時期は蘇我氏権力がまさにその絶頂にさしかかったときであり,推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって,女帝も太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。したがって,この時期に多く見られる大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり,とくにその中の冠位十二階の制定,十七条憲法の作成,遣隋使の派遣,《天皇記》《国記》以下の史書の編纂などは,蘇我氏権力を否定し,律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化しているが,これらもすべて基本的には太子の協力の下に行われた蘇我氏の政治の一環とみるべきものである。

 しかし太子は若くして高句麗僧慧慈(えじ)に仏典を,博士覚哿(かくか)に儒学等の典籍を学び,その資質と文化的素養は時流を抜くものがあったらしい。みずから十七条憲法の文章を作ってその第2条に〈篤く三宝を敬え〉と述べ,仏典を講説して法華・維摩・勝鬘3経のいわゆる《三経義疏(ぎしよ)》を著したと伝えられ,また四天王・法隆・中宮・橘・広隆・法起・妙安の7寺を興したと伝えられるなど,当時の仏教文化の興隆に大きな役割を果たしたことを物語る所伝が少なくない。ただしそのためか,太子は聖(ひじり)であったとか,中国南岳の慧思禅師の後身であるとか述べて,超人間的存在であったごとく説くことが,主として仏家の間に早くから生じた。太子の伝記は《書紀》に劣らず古いとされる《上宮記》《上宮聖徳法王帝説》などから始まって,数多く作られた。917年(延喜17)成立の《聖徳太子伝暦》に至って,太子の伝説化はほぼ完成されたといってよく,以後平安時代から鎌倉時代にかけて,太子信仰が広く普及していった。太子は敏達・推古両天皇の女の菟道貝鮹(うじのかいだこ)皇女,膳加多夫古(かしわでのかたぶこ)の女の菩岐岐美郎女(ほききみのいらつめ),蘇我馬子の女の刀自古郎女(とじこのいらつめ),尾治(おわり)王の女の猪名部橘(いなべのたちばな)女王などを妃として,山背大兄(やましろのおおえ)王(刀自古郎女の所生)をはじめ数多くの子女を生んだが,622年2月22日に斑鳩宮で病死し,河内の磯長墓(しながのはか)(いま大阪府南河内郡太子町太子の叡福寺境内)に葬られた。
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《日本書紀》がすでにその事跡を神秘化している聖徳太子は,奈良時代には法隆寺や四天王寺でまつられていた。法隆寺では天平年間(729-749)に行信によって上宮王院(東院)が創建され,太子をかたどった観音像(救世(ぐぜ)観音)が八角円堂(夢殿)に安置された。当時の太子伝承は《上宮聖徳法王帝説》に記され,太子が一時に8人の言をわきまえた聡敏な人であったこと,《維摩経》や《法華経》の疏を製作中,夢に金人が現れて解答を与えたことなどを記す。この説話は,《上宮皇太子菩薩伝》に夢堂の禅定,《上宮聖徳太子伝補闕記》に大殿の三昧定という形を経て,10世紀に成立した編年体の《聖徳太子伝暦》で夢殿にこもって金人より妙義を聴き,また夢殿入定中に唐へ渡り前生所持の法華経を持ち帰るという説話となる。このような説話の発展が示すように,太子は日本における仏教の伝来と流布を象徴する貴種であった。《伝暦》が百済の阿佐王子の敬礼文として〈救世大慈,観音菩薩,妙教流通,東方日国,四十九歳,伝灯演説,大慈大悲,敬礼菩薩〉を伝えるように,太子は救世観音,また如意輪観音の化身とされ,あるいは聖武天皇に再誕して大仏を造ったともいう。真言宗では,平安時代に弘法大師や聖宝に再誕したという説が生まれ,天台宗では,最澄がすでに太子を聖人としてたたえ,《伝暦》などにみえる《七代記》逸文によれば,太子の前生に天台宗の祖である南岳慧思禅師をあて,衡(こう)山で達磨大師とめぐり会いともに日本に転生して仏法を流布しようと誓ったという。すでに《書紀》にみえる,〈太子が片岡に遊行した際,飢者に遇って衣食を与え,哀れんで歌を詠む。飢者は死んで葬られ,太子が命じて墓を調べるとその屍は消えていた〉という説話は神仙譚的な性格をもち,以降《日本霊異記》《補闕記》などに記され,《伝暦》ではさきの説話と結びつき,慧思は太子,達磨は飢人であるとする。

 一方,《法王帝説》には,太子が蘇我馬子とともに物部守屋と戦ったとき,四天王像を挙げて,守屋を滅ぼせば四天王の寺を造ろうと誓い勝利を得たという,四天王寺創建の縁起が含まれる。この太子と守屋の合戦譚は,《補闕記》《伝暦》《四天王寺御手印縁起》等,四天王寺の縁起を中心に,古代における仏教の勝利を代表するものとなり,やがて中世には寓意と霊験に満ちた合戦物語として太子伝唱導の中心となった。《善光寺縁起》にも,この説話は,物部氏が難波の堀江に攘(はら)い捨てた,天笠の月蓋長者の造ったという一光三尊阿弥陀如来像を,本田善光が信濃国まで運んでまつるという,本尊一光三尊阿弥陀如来の将来をめぐる記述のなかに含まれ,太子伝とも重なって絵解きされていた。四天王寺にはすでに奈良時代に聖霊院と絵堂が建立され,当時《障子伝》と呼ばれる絵解きのための伝記が作られたらしい。12世紀には《台記》に絵解きの消息が知られる。1069年(延久1)には法隆寺東院絵殿に障子絵伝が描かれ,1121年(保安2)には西院に聖霊院が造立されたのは四天王寺の影響があろう。

 中世には,橘寺,広隆寺など周辺の太子にかかわる天台寺院,そして,太子創建と伝える京都の六角堂に参籠した親鸞が夢告を受け回心したと伝える(聖徳太子内因曼荼羅)ことを契機とする,親鸞の太子信仰を継承する高田専修寺派を中心とする浄土真宗寺院によって太子伝の絵解き唱導が広く行われ,大量の絵伝と物語化した太子伝記が生みだされた。その典型は,1320年(元応2)ころに四天王寺で製作された《正法輪蔵》で,それは中世に醸成された太子をめぐる豊かな秘事口伝を含む。たとえば太子の乗る黒(烏)駒は,《補闕記》に烏斑の駒に乗り富士や北国に遊行したことを記すが,《伝暦》以降,これを甲斐の黒駒として,最愛の妃膳(かしわで)大娘をめとる事跡とともに27歳の条に記される。《正法輪蔵》ではこれを輪王の七宝中の馬宝と女宝であると解釈し,黒駒に乗る太子は,諸国の霊山を巡行して熊野や伊勢などの神々の本地垂迹(ほんじすいじやく)の相を明らかにし問答して結縁する。それは,東北に多い黒駒太子像が示すように山岳宗教と結びついて生まれた伝承だろう。黒駒とともに太子に随行する舎人(とねり)の調子麿(丸)は,太子没後も墓を守ったというが,13世紀に法隆寺の顕真がその子孫と称して太子伝の秘事口伝《聖徳太子伝私記》を集成したように,太子伝承を担う存在として意識されていた。その秘事口伝は,《上宮菩薩秘伝》を作った叡尊門下の律僧集団にも伝えられ,また絵解きの展開と深く結びついている。

 その過程で成立した代表的な説話が,膳妃に関するものである。太子行幸の際,三輪川の辺で老母を養うため芹を摘み礼をなさぬ少女を見とがめて問答し,かえってその孝心を賞して住居の陋屋を訪れ婚儀をなす。これは漢籍《蒙求》などの採桑妃説話などを換骨奪胎したものだが,同時に膳妃は勢至菩薩が月輪として降った化人であるという。それは,太子を観音,母后間人妃を阿弥陀とするのに応じ,やがて磯長(しなが)の太子廟(叡福寺)は,三骨一廟としてこの3人を葬り,弥陀三尊をかたどる浄土教の聖地となる。四天王寺も,太子が西門は極楽の東門である(御手印縁起)といい,また日想観も太子が始めたとして浄土教の中心となり,太子と浄土信仰は不可分の関係にある。

 《伝暦》には,太子が周囲の人々と自身の運命や過去の因果,また遷都や寺院建立について,さまざまな予言をすることが述べられる。それは中世に《聖徳太子未来記》という形で盛んに意識された一種の歴史的認識ともかかわり,太子が,神仏ならびに聖界と人間世界との媒介者であることを物語ると思われる。また《伝暦》以降の太子伝は,仏教とともに半島から諸技芸などの移入を太子に結びつけて記すが,中世を経て現代まで,寺院の周辺で活動していた大工や猿楽(能楽)などの諸芸能は太子を開祖とする縁起をもつ。金春禅竹の《明宿集》などはその好例であるが,それは,中世に諸職人や諸道の人々が王権と結びついて活動していたこととかかわるものだろう。
太子信仰
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「聖徳太子」の意味・わかりやすい解説

聖徳太子
しょうとくたいし
(574―622)

飛鳥(あすか)時代の政治家、また宗教的思想家。厩戸(うまやど)皇子、豊聡耳(とよとみみ)、上宮(かみつみや)王ともいう。父は橘豊日(たちばなのとよひ)皇子(用明(ようめい)天皇)。母の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后が、池辺雙槻宮(いけのへのなみつきのみや)の庭を歩いているとき、厩戸の前で皇子を出生したので「厩戸」の名がつけられたという。明治時代の歴史学者久米邦武(くめくにたけ)は、キリストの生誕に類似することに注目し、唐の都長安(ちょうあん)に流行していたキリスト教の一派景教(けいきょう)(ネストリウス派)の知識を天智(てんじ)・天武(てんむ)天皇のころ大唐学問僧が日本に持ち帰り、太子の誕生説話に付会したのであろうと推定した。「豊聡耳」の名は、太子が聡明(そうめい)で訴訟裁定に優れた能力をもつことにちなみ、「上宮」の名は、その宮が父用明天皇の宮の南、上宮の地にあったことによる。なお「聖徳」の名は、もっともポピュラーであるが、仏法を興隆した太子賛仰の意味を込めて、太子の死後用いられたもので、法起寺(ほっきじ)塔の露盤(ろばん)銘に「上宮太子聖徳皇」とあるのが初見である(706年造営)。

 593年(推古天皇1)に、聖徳太子は推古(すいこ)女帝の皇太子となった。大臣(おおおみ)の蘇我馬子(そがのうまこ)は、大連(おおむらじ)の物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼし、さらに崇峻(すしゅん)天皇を殺して、権力を振るっていた。皇太子は通例、次期皇位継承者であるが、聖徳太子の場合、天皇家の危機にあたり、国政を担当する任務が与えられており、したがって「摂政(せっしょう)」に比重が置かれていたと解される。聖徳太子は政治をゆだねられて執政の座につき、一方推古天皇は、不執政の座に上った。「天皇」の称号が、これまでの「大王(おおきみ)」にかわって用いられるのは、推古朝のころとされているが、自らは動かず、しかも天界のもろもろの星の中心に位置する北極星をさす「天皇」の称号は、不執政の座を表すのに適切であったと考えられる。

[田村圓澄 2017年8月21日]

太子の政治

蘇我馬子の建立にかかる飛鳥の法興寺(ほうこうじ)(飛鳥寺)は、596年に完成し、高句麗(こうくり)僧の慧慈(えじ)(?―623)、百済(くだら)僧の慧聡(生没年不詳)をはじめ、多くの僧が入った。仏法興隆について、聖徳太子と馬子とは協力することができた。こうして太子は大和(やまと)の斑鳩(いかるが)に法隆寺を建てるが、蘇我氏の建てた法興寺と、「仏法興隆」の文字を分かち合っていたことが注意される。

 太子には3人の側近があった。高句麗の慧慈、百済系と思われる覚哿(かくか)(生没年不詳)、それに新羅(しらぎ)系渡来氏族である秦河勝(はたのかわかつ)であった。慧慈は仏教の、また覚哿は儒学の師であったが、秦河勝を含め3人の側近は、東アジアの国際情勢について太子に説明することができたであろう。高句麗、百済、新羅の朝鮮半島の三国は互いに争っていたが、聖徳太子の側近としてこの3人はバランスがとれていた。

 執政の座にある聖徳太子にとって、蘇我馬子との関係には少なからぬ困難があった。601年に斑鳩に宮をつくり、ついで磐余(いわれ)の上宮から斑鳩に移ったのは、馬子の本拠である飛鳥から離れ、しかも難波(なにわ)(大阪)に通ずる新しい拠点を確保することにより、独自の外交、内政を展開するためであったと考えられる。

 589年(崇峻天皇2)に隋(ずい)は中国大陸を統一したが、太子は、600年、607年、608年、614年の4回、隋に使者を送った。使者の任務は、辞を卑(ひく)くして中国の皇帝から政治支配権の確認を求めた5世紀の倭(わ)の五王とは異なり、文物、文化の移植にあった。したがって長期留学の学生、学問僧も同行したが、大陸文化の本格的な移植はこれらの留学生に負うところが多かった。

 603年に冠位十二階が制定された。家柄によって身分が決まる氏姓制度にかわり、個人の力量、才能によって地位を決める冠位十二階制は、昇進も可能であり、後の官人の位階制の始まりとなった。冠位十二階の施行に続いて憲法十七条を制定した。冠位十二階が、天皇制の下での官人貴族の序列化であるとすれば、憲法十七条は、官人貴族の服務規律であり、道徳規範であった。

 聖徳太子が目ざしたところは、天皇を中心とする中央集権国家体制の確立であった。推古朝の政治について、聖徳太子と蘇我馬子との二頭政治であるとか、あるいは馬子の主導によって国政は推進されたとする見解があるが、572年(敏達天皇1)に蘇我馬子が大臣となって以来、とくに画期的な政策を断行したことがなく、聖徳太子の在世中に内政・外交の新政策が集中している事実から考えれば、推古朝の政治は太子によって指導されたとみるべきである。それだけに太子と馬子との対立は不可避であった。

[田村圓澄 2017年8月21日]

太子の仏教

太子の父用明天皇は、仏教帰依(きえ)を表明した最初の天皇であったが、その願望は実現しなかった。用明天皇の仏教受容は、病気の平癒を期待したのであり、いわば現世利益(げんぜりやく)を仏教に求めたのであるが、太子の仏教受容には、現世利益を求める傾向も、鎮護国家を求める呪術(じゅじゅつ)的要素もなく、仏教を人間の個人の内面的・精神的なものとの関連において理解しようとするものであった。太子の仏教理解を示すものに憲法十七条があり、太子のことばとして伝えられる天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)に載せられた「世間虚仮(せけんはこけなるも)、唯仏是真(ただほとけのみこれまことなり)」と、舒明(じょめい)即位前紀に記された「諸悪莫作(もろもろのあしきことをばなせそ)、諸善奉行(もろもろのよきわざをおこなへ)」とがある。また推古天皇のために経典を講義したときにできたという法華(ほけ)、維摩(ゆいま)、勝鬘(しょうまん)の『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』があるが、この『三経義疏』については、太子の著作であるか否か、また太子の著作であるとして、どの部分が太子の独自の解釈であるかは、なお検討を必要とする。

[田村圓澄 2017年8月21日]

太子信仰

622年(推古天皇30)2月22日に、聖徳太子は斑鳩宮で亡くなった(紀は前年2月5日没)。49歳であった。遺体は河内(かわち)の磯長(しなが)の墓地に葬られた。墓は大阪府南河内郡太子町の叡福寺(えいふくじ)境内に現存する。太子を思慕する人々により聖徳太子信仰が形づくられるが、半跏思惟(はんかしい)像が亡き太子のイメージを表した。釈迦(しゃか)の前身である悉達(しった)太子の像であった半跏思惟像は、聖徳太子像と重なった。そして8世紀には、太子は「日本の釈迦」と仰がれることとなる。鎌倉時代およびそれ以前に成立した太子の伝記・絵伝は、現存のものだけでも20種を超える。それらは、時代を下るにしたがって内容を豊富にし、伝記としての体裁を整えるが、統一的完結的なまとまりをもつ最初の伝記である藤原兼輔(ふじわらのかねすけ)の『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』において、その太子像は荒唐無稽(こうとうむけい)な異聞奇瑞(きずい)で満たされている。

[田村圓澄 2017年8月21日]

『田村圓澄著『日本仏教史 第1巻』(1982・法蔵館)』『田村圓澄著『聖徳太子』(中公新書)』


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百科事典マイペディア 「聖徳太子」の意味・わかりやすい解説

聖徳太子【しょうとくたいし】

飛鳥(あすか)時代の中心的政治家,思想家。父は用明天皇,母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后。幼名は厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)皇子。のち上宮(じょうぐう)王ともいう。592年に即位した推古天皇摂政として仏教を基調とした政治を行った。603年冠位十二階を定め,翌年には十七条憲法を制定した。607年小野妹子(いもこ)を派遣し(ずい)との対等の国交を開き,留学生・留学僧を送って大陸文化の導入に努めた。仏教に対しては深い理解と信仰を示し,その著作とされる《三経義疏(さんぎょうぎしょ)》には独自の解釈がうかがわれ,法隆寺四天王(してんのう)寺中宮寺橘寺広隆寺法起(ほっき)寺・妙安寺の7寺を建立したといわれる。墓は磯長(しなが)谷(大阪府太子町)の叡福(えいふく)寺の伽藍北側にあり,叡福寺北古墳ともよばれる。叡福寺は推古天皇が太子の墓を守護追福するため坊舎を営んだことに始まると伝え,724年聖武天皇の勅願によって広大な伽藍が建立されたという。なお同寺は磯長寺・御廟(ごびょう)寺ともよばれ,大阪府八尾市の下太子大聖勝軍(しものたいしたいせいしょうぐん)寺,同羽曵野(はびきの)市の中太子野中(なかのたいしやちゅう)寺とともに上太子(かみのたいし)と並称される。→遣隋使上宮聖徳太子伝補闕記
→関連項目斑鳩宮円快大阪[市]駒ヶ岳(山梨・長野)上宮聖徳法王帝説聖徳太子絵伝神野寺蘇我馬子大官大寺太子講大師講太子伝天寿国繍帳天皇記馬蹄石百済寺仏教本朝神仙伝本朝法華験記山背大兄王

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「聖徳太子」の意味・わかりやすい解説

聖徳太子
しょうとくたいし

[生]敏達3(574).大和
[没]推古30(622).2.22. 大和
古代,推古朝の摂政。厩戸皇子,豊聡耳 (とよとみみ) 皇子といい,また上宮太子とも称する。用明天皇の皇子,母は穴穂部間人 (あなほべのはしひと) 皇后。叔母推古天皇の皇太子となり,摂政として内政,外交,仏教の興隆に力を尽した。皇太子摂政の慣習はここに始ったが,これは従来大臣,大連にゆだねられてきた国政総理の職掌を皇室に取戻そうとしたものである。推古 11 (603) 年冠位十二階を,翌 12年『十七条憲法』を定め,豪族勢力を押えて中央集権的官僚国家建設の準備を整えた。外交面では任那回復のための新羅征討が重大問題で,また新羅問題を有利にし先進文化を輸入するため隋とも国交を開始し,同 15年に小野妹子を派遣した。仏教を深く信仰し,これを弘通させることに努力し,法隆寺,四天王寺などを建立し,仏典の注釈『三経義疏』を著わしたと伝えられる。墓は大阪府南河内郡太子町の磯長墓 (しながのはか) 。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「聖徳太子」の解説

聖徳太子
しょうとくたいし

574~622.2.22

用明天皇の皇子。母は皇后穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女。厩戸(うまやど)皇子が実名と考えられるが,住んでいた宮の名称や仏教とのかかわり,またその優れた能力などから,上宮厩戸豊聡耳(かみつみやうまやどのとよとみみ)皇子・上宮(じょうぐう)法皇など多くの異称をもつ。「日本書紀」は593年,推古天皇の即位と同時に立太子し,摂政となったとするが,実際に政治に関与するのは602年(推古10)頃からの約10年間と考えられる。この間,冠位十二階・憲法十七条の制定,遣隋使の派遣,国史編修などにかかわった。皇太子とすることには疑問があり,推古のもとで蘇我馬子(そがのうまこ)と共同執政を行っていたとする考えもある。仏教への造詣が深く,手厚く保護し,みずから四天王寺の造立を企てた。「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」は太子の著作とされる。平安時代以降は仏教保護者としての太子自身が信仰の対象とされ,多くの太子像が造られた。蘇我馬子の女刀自古郎女(とじこのいらつめ)との間に山背大兄(やましろのおおえ)王らをもうけた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「聖徳太子」の解説

聖徳太子 しょうとくたいし

574-622 飛鳥(あすか)時代,用明天皇の皇子。
敏達(びだつ)天皇3年生まれ。母は穴穂部間人(あなほべのはしひとの)皇女。推古(すいこ)天皇の皇太子,摂政となり,十二階冠位の制定,憲法十七条の発布,遣隋(けんずい)使の派遣などをおこなう。また慧慈(えじ)にまなび,「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」をあらわした。豊聡耳命(とよとみみのみこと),上宮(じょうぐう)王ともいう。推古天皇30年2月22日死去。49歳。墓所は磯長(しながの)墓(大阪府太子町叡福寺)。名は厩戸(うまやどの)皇子。
【格言など】財物は亡び易くして永く保つべからず。ただ三宝の法は絶えずして永く伝うべし(遺詔)

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旺文社日本史事典 三訂版 「聖徳太子」の解説

聖徳太子
しょうとくたいし

574〜622
6〜7世紀の摂政・思想家
厩戸豊聡耳皇子 (うまやどのとよとみみのおうじ) ・上宮太子 (じようぐうたいし) ともいう。用明天皇第2皇子,母は穴穂部間人 (あなほべのはしひと) 皇后。593年叔母推古天皇の摂政 (せつしよう) となり,蘇我馬子と協調して政治・外交・文化に活躍。603年冠位十二階,604年憲法十七条の制定,『天皇記』『国記』の編纂,607・608年小野妹子を隋に派遣して国交を開き大陸文化を摂取。また仏教興隆につとめ,四天王寺・法隆寺を建立し,『三経義疏 (さんぎようぎしよ) 』を著した。天皇を中心とする中央集権国家をめざしたその政治思想は大化の改新以降に結実した。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

防府市歴史用語集 「聖徳太子」の解説

聖徳太子

 593年に推古[すいこ]天皇が即位したとき、補佐役として政治を助けたのが聖徳太子です。仏教を保護したので、平安時代には聖徳太子自身が信仰の対象とされ、多くの太子像が作られました。

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世界大百科事典(旧版)内の聖徳太子の言及

【冠位十二階】より

…従来,豪族たちは大和朝廷において氏ごとに一定の職務を世襲し,その政治的特権の表象として特定の冠を襲用してきたが,これは,それとは別に個人を対象とし,昇進の原則をもつ新しい冠位制度であった。制定者は推古朝の皇太子聖徳太子と考えてよいが,時の大臣蘇我馬子の関与も十分考えられる。冠名は徳を初めに置き,以下に仁・礼・信・義・智の五常の徳目をとり,おのおのを大・小に分けて12階とし,各階に相当の色を定めたが,その具体的な内容は不明。…

【偽書】より

…また文芸的趣味のため,権力に関係なく仮託するものもある。中国では古くから偽書が多いが,日本では上古景仰意識の起こった平安末から鎌倉時代にかけて仮託が行われ,聖徳太子撰《先代旧事本紀》も平安時代の偽書であろうといわれている。聖徳太子には〈十七条憲法〉をはじめ著作が多い。…

【国記】より

…聖徳太子が蘇我馬子とともに編集したという歴史書。《日本書紀》の推古28年(620)条に〈天皇記及国記,臣・連・伴造・国造・百八十部幷公民等本記を録す〉とある。…

【三経義疏】より

…聖徳太子の著作で,《法華義疏(ほつけぎしよ)》4巻,《維摩経義疏(ゆいまきようぎしよ)》3巻,《勝鬘経義疏(しようまんぎようぎしよ)》1巻の総称。《日本書紀》によれば,太子は606年(推古14)に《勝鬘経》と《法華経》を講じたとあり,《維摩経》のことは不明だが,この講経と義疏の製作は,密接な関係をもっていると考えられる。…

【四天王寺】より

…もとは天台宗,第2次大戦後独立して和宗本山となる。 587年物部守屋討伐のとき聖徳太子が四天王に戦勝を祈願して寺院の建立を発願し,593年(推古1)造営に着手したと伝える。1955年の調査で飛鳥~奈良時代の瓦が塔,金堂,中門周辺から出土し,草創伝承と造営の継続を裏づけた。…

【聖徳太子絵伝】より

太子信仰に基づき聖徳太子一代の伝記を描いた絵巻。太子の伝説絵は,法隆寺絵殿の障子絵など壁画の形式をとるもののほかに絵巻形式,掛幅形式のものなどがあり,相互に関連しあってバラエティに富んだ各種の作品が生み出された。…

【聖徳太子伝私記】より

…上宮王院,法隆寺などの聖徳太子に関係する遺跡,宝物や太子伝に関する秘事口伝などを示した書物。法隆寺僧顕真の著。…

【浄土寺】より

…山号は転法輪山。寺伝に聖徳太子の創建とある。鎌倉時代末に奈良西大寺叡尊の弟子,定証が中興したが,1325年(正中2)に全焼し,翌年から尾道の豪商道蓮・道性夫妻の発願で再建に着手,14世紀前半に現在の堂舎を含む七堂伽藍が整備された。…

【職業神】より

…猟師,炭焼き,木樵(きこり),木挽(こびき)など山稼ぎ職の信ずる山の神は,農民のいう山と里を去来する山の神と信仰を異にし,山の神は一年中山に鎮まると考え,特殊な形をした木を山の神の木としてとくに神聖視する風がある。 木樵や木挽は山の神をオオイゴと呼んだところから,それに大子,太子の字をあててダイシ,タイシと読まれ,弘法大師や元三(がんざん)大師,智者大師などに付会した話に語り伝えられ,太子様すなわち聖徳太子とも混同して信仰するようになった。 炭焼き仲間では煙出しの穴から出る煙の色をいかによく判別するかという炭焼き技術の要諦を弘法大師から教えられたのだといい,煙出しの穴をダイシアナと呼ぶところが東日本にはたくさんあった。…

【推古天皇】より

…大臣蘇我馬子が587年(用明2)に大連(おおむらじ)物部守屋を攻め滅ぼしてその権力を確立し,さらに592年(崇峻5)自分が立てた崇峻天皇を暗殺すると,その年の末に推古天皇を即位させて,女帝の例を開いた。天皇は初め飛鳥の豊浦宮(とゆらのみや)におり,のち小治田宮に移ったが,即位の翌593年(推古1)4月に甥の聖徳太子(用明天皇皇子)を摂政として,これに万機をゆだねた。この太子の執政をもって,蘇我氏に対抗して皇室の主導権を回復するためにとられた方策とする見方が広く行われているが,この時点はまさに蘇我氏権力がその最盛期に達したときであり,推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって,天皇も太子もその蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。…

【善光寺】より

… この頼朝による善光寺再建への助成は,勧進上人すなわち善光寺聖の勧進活動の成果にほかならない。彼らは種々の説話をもって各地を遊行し,善光寺信仰の勧進教化に努めたが,その説話の一つに善光寺如来と聖徳太子との間で消息の往返がなされたという話がある。善光寺聖はこの説話によって,冥界からの救済を説く善光寺信仰と,四天王寺の西門で極楽往生を願う念仏信仰とを結びつけ,善光寺如来と聖徳太子が共同で念仏者を往生させると唱導したのである。…

【祖師】より

…日本の仏教では,釈迦は釈迦三尊像などであらわされるように大乗仏教の仏として説かれ,仏教の開祖としての釈迦について教えられることは少なかった。また,仏教が長期にわたって断続的に伝えられたために,宗派性が強調されることが多く,釈迦よりも宗祖や日本仏教の開祖としての聖徳太子が賛仰の対象になることが多かった。さらに,多彩な仏教を統一的に理解することは容易ではなかったから,新しい教説を立てたり,仏教を日本人にわかりやすく説いた宗派の開祖が,信仰の対象として重んぜられる傾向が強かった。…

【太子講】より

…聖徳太子を讃仰する宗教講,または大工,左官など建築関係の職人たちが,それぞれ同業者集団として結束をはかるため聖徳太子を守護神として行う職業講をいう。真宗では,親鸞が和国の教主とたたえた聖徳太子の奉賛が盛んで,存覚の太子講式にのっとって行われた。…

【太子信仰】より

…聖徳太子に対する種々な信仰をさす。聖徳太子の威徳については早くから伝説化され,各時代,さまざまな形であがめられた。…

【達磨】より

…やがてインドに西帰,あるいは日本に来化したという伝説がつくられた。とりわけ日本来化の伝説は,最澄の菩薩戒独立運動と関係し,南岳恵思が日本に聖徳太子として再生するという,より古い伝説と結合し,日本では天台宗より分立する達磨宗の運動や,その祖師像の製作をめぐって,近世における福達磨の流行にまで発展する。 もともと,達磨が伝える正法眼蔵の本質は,自覚聖智,自性清浄心のこととして,これを古くより伝承する《楞伽(りようが)経》に求めるものと,梁の武帝や弟子慧可との問答に求めて,そこに般若皆空の理を重視するもの,あるいは経典いっさいを捨てて,以心伝心を主張するものなど,後代になるほど多数の異説を生んだ。…

【人相学】より


[日本]
 日本にも古来,鹿の肩甲骨を焼いてその割れ目から占う太占(ふとまに)の術があり,これを行う占部一族もいたが,相術の本流となった始まりは遣隋使,遣唐使が持ちこんだ達磨相法である。聖徳太子も仏画と関連して人相に興味を寄せ,崇峻天皇の相を観たとされ,ほかに天武天皇を観相した鈴鹿翁,藤原鎌足,三善清行などがいる。平安時代に眉を落として黛(まゆずみ)で額に高く描いたのも,当時の相法が眉の高いのを高貴の相としたためといわれる。…

【針】より

…この姉小路針にかかわって,日本の縫針の始まりについての伝承がある。《庭訓抄》《慶長見聞集》によれば,聖徳太子が,身体に障害があって宮中を追放され,諸所をさまよう自分の姉に,生業として針のことを教えた,これが日本の針の始まりで,ゆえに姉小路針という,というものである。中世における姉小路針の著名さと,諸道の祖とされた聖徳太子の伝承とが結びついて形成されたものであろう。…

【仏教】より

…公伝当初,蘇我稲目(いなめ)は崇仏を,物部尾輿(もののべのおこし)は排仏を,天皇は中立の立場をとったといわれるが,仏教はいくたびかの迫害をうけながらも,蘇我氏を中心に渡来系氏族が多く居住していた飛鳥の地に最初に根づいた。そして,587年(用明2)の排仏派の物部守屋(もりや)滅亡を契機に,用明朝つづく摂政聖徳太子の推古朝に,仏法興隆の道がひらけた。この時期の仏教の中心は飛鳥と斑鳩(いかるが)だった。…

【仏教美術】より

…中国では巻子装の紙本の書写経が多く,この形式が日本に伝わる。 紙に書いた日本最古の遺品に,聖徳太子筆と伝える《法華義疏》(宮内庁)がある。紀年銘のあるものとしては《金剛場陀羅尼経》(686)が最も古い。…

【法隆寺】より

…法隆学問寺・斑鳩(いかるが)寺(鵤寺・伊可留我寺)ともいう。推古天皇・聖徳太子創建の七ヵ寺の一つ。南都七大寺あるいは十五大寺の一つに数えられた。…

【夢殿】より

…法隆寺東院の中心にある堂。東院伽藍は聖徳太子の斑鳩宮(いかるがのみや)のあった所で,太子一族滅亡の後荒廃していたのを,738年(天平10)ころ行信が造営した。夢殿の名は,斑鳩宮に同名の建物があり,聖徳太子が時々その中にこもり政事や仏教に思いをめぐらせたが,そのとき金人(仏像)が現れて妙義を告げたという伝説にもとづく。…

【六角堂】より

…西国三十三所観音霊場の第18番札所。寺伝では,平安遷都以前の開創で,聖徳太子が四天王寺建立のための用材を求めて当地に来たとき創建され,本尊如意輪観音は太子七生の守本尊であるという。平安中期,すでに太子信仰と観音の霊験で知られ,貴賤男女の参籠がつづき,洛陽七観音の一つとして栄えた。…

※「聖徳太子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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