丹波国
古代は葛野川(河)と通称し(「山城国風土記」逸文・「日本後紀」延暦一八年一二月四日条ほか)、また
古くは桂川には
とみえる。「本朝世紀」久安五年(一一四九)八月一〇日条は「去夜大雨降、今日松尾行幸延引、依桂河浮橋流損也」と記す。
もともと山中湖から大月市域までは深いV字谷となっていたが、度重なる富士山の噴出物によって谷が埋められ、現在の地形が形成された。富士火山の古期活動で流出した猿橋溶岩は大月市
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市南西部を流れる川。大堰(おおい)川の下流で,保津峡の出口嵐山から南流して淀川に入るまでの区間をさす。延長約22km。亀岡盆地東端から嵐山までの上流部分は保津川(保津峡)と呼ばれ,老ノ坂山地を貫流して峡谷をつくり,途中で清滝川を合し,嵐山で京都盆地に入る。次いで有栖川,御室(おむろ)川,鴨川,小畑川を合流してはんらん原をつくり,天王山と男山との間の京都・大阪府界において宇治川,木津川と合して淀川となる。右岸に長岡京,左岸に平安京が相ついで造営されたため,早くから京都人に親しまれた河川である。今日の保津峡,高雄,嵐山,嵯峨野は,史跡や古社寺が集中する景勝の観光地として著名で,保津川舟下りやハイキングコースもあり,四季を通じて訪れる市民や観光客が多い。梅津・西京極付近には友禅染工場が多く,河原での友禅の水洗作業は,京都の冬の風物詩であったが最近姿を消した。下流沿岸では住宅地と工場の進出によって急速に市街地化が進んでいる。
執筆者:服部 昌之
古くは郡名を負って葛野(かどの)川と称したが,大堰をつくり一帯を開発したという秦氏の伝承(〈秦氏本系帳〉)により,大堰(井)川ともいい,また桂川の称も早くから生まれている。平安時代には鴨川を東河というのに対して西河と呼ばれ,防鴨河使と同様,防葛野川使が置かれていた。桂には浮橋(舟橋)が架設され,また嵯峨,梅津,桂(楓),佐比(さひ)(いずれも現,京都市)などには津が設けられ,木材をはじめ物資の陸揚地となったが,とくに梅津には木屋が置かれ,馬借・車借の活動も早くから認められ,中世に及んでいる。近世にも多数の材木屋が構えられ,〈三ヶ所材木屋〉と称された。平安京の西郊であるところから王朝貴族の舟遊びに利用され,別荘も営まれた。ことに藤原道長の桂山荘は著名で,近世初期,八条宮智仁・智忠親王2代にわたって造営された桂離宮は,道長の山荘跡を利用したものである。桂川は秦氏の昔より農業用水として用いられ,なかでも今井用水にかかわる西岡11ヵ郷が契約を結び,用水の掟の順守を誓い合ったこと(南北朝期)はよく知られているが,その後争論もしばしば起こっている。近世初頭,1606年(慶長11),角倉了以は,幕府の許可を得て保津峡の開削を行い,丹波からの薪炭などの運搬水路として利用されるようになった。
執筆者:村井 康彦
相模川の上流部,山梨県内を流れる部分の呼称。富士山北麓,山中湖を水源とし,西流して富士吉田市付近を通り,流路を北にとって大月市に至り,西から来る支流笹子川を合わせて東流し,上野原市上野原付近で相模湖に入る。山間部を流れるため峡谷の部分が多く,流れも急で峡谷美に富んでおり,アユ釣りなども盛んである。河岸段丘の発達が著しく,上位から三つの段丘面が区別され,集落や耕地の多くは第2段丘面の上にのっている。水源が湖であり,また流域に湧水も多いため渇水期でも水量が多く,早くから水路式発電所が各地に設けられ,明治から昭和初年にかけて,京浜地方の重要な電源であった。また大月市内の河谷には富士溶岩流の柱状節理が露出しており,古富士火山噴火の際溶岩流が桂川河谷に沿って流下したことを示している。甲州街道,中央本線,中央自動車道がほぼ川沿いに通じる。
執筆者:横田 忠夫
福岡県中央部,嘉穂郡の町。人口1万3863(2010)。北から西は飯塚市に接する。中央を遠賀川支流の泉河内川,北部西を穂波川が北流し沖積低地を形成するほかは,丘陵が広く分布する。いたるところに古墳があるが,特にJR筑豊本線桂川駅北方にある王塚古墳(特史)は装飾古墳として有名である。明治中期以降,炭鉱が開発されて急速に発展,1940年町制を施行した。しかし55年以後,石炭産業は崩壊して大小10炭鉱はすべて閉山し,一時2.3万人を数えた人口も半減,過疎と鉱害の町と化した。その後,炭住再開発によるベッドタウン化と工場誘致による工業化が進められている。特産品として土師焼の民芸品がある。
執筆者:松橋 公治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
福岡県中部、嘉穂郡(かほぐん)にある町。1940年(昭和15)町制施行。南部は第三紀層の丘陵で、遠賀(おんが)川支流の泉河内(いずみごうち)川、穂波(ほなみ)川が北流して沖積低地を形成、JR筑豊本線(ちくほうほんせん)が国道200号と南北に並走し、篠栗線(ささぐりせん)を分岐する。明治中期以降、炭鉱町として発展し、多数の炭鉱が存在したが、1972年(昭和47)にすべて閉山された。その後工業団地や住宅団地の造成が進められたが、町勢は停滞したままで、飯塚(いいづか)市方面への通勤者が多く、また福岡都市圏のベッドタウンとなっている。現在は稲作を中心に、イチゴ栽培や酪農などを行う農業地域であるが、土師(はじ)焼が特産品として有名である。特別史跡の王塚古墳(おうづかこふん)は5~6世紀の装飾古墳として名高い。土師老松神社の獅子(しし)舞は県指定無形民俗文化財。面積20.14平方キロメートル、人口1万2878(2020)。
[石黒正紀]
『古野日出男著『桂川町誌』(1967・桂川町)』
京都市の西部を南流する川。丹波(たんば)高地に源を発した大堰川(おおいがわ)は、亀岡(かめおか)盆地と京都盆地間は保津川(ほづがわ)といい、京都盆地に流入して淀(よど)川に合流するまでの31キロメートルは桂川と称する。行政上は源から淀川に合流するまでを桂川とし、流域面積1100平方キロメートル、幹線流路延長114キロメートルの一級河川。流域の開発は古く、乙訓(おとくに)古墳群や、桓武(かんむ)天皇の平安遷都以前の長岡京跡がある。また灌漑(かんがい)用水としては、すでに5世紀に渡来氏族秦(はた)氏によって開発され、江戸時代には友禅染めの水洗いに用いられた。現在でも沿岸の嵯峨(さが)、梅津(うめづ)、西京極(にしきょうごく)などには多くの染色工場が分布する。淀川との合流点一帯の低地には、洛南(らくなん)工業地域の一環として工場が立地する一方、宅地化の発展もみられる。
[織田武雄]
山梨県東部を流れる川。富士五湖の一つ山中湖と忍野(おしの)に源を発し、道志(どうし)、秋山両山地の西および北を回り、神奈川県平塚市で相模(さがみ)湾に注ぐ相模川の上流部。普通、源流から神奈川県境までをさす。延長52.9キロメートル。同川の富士吉田―大月間は溶岩流を切って流下し、また富士山の地下水のため田原ノ滝などの滝や峡谷が多い。大月から下流は流路が地溝帯を通るため、深い谷と河岸段丘で特色づけられる。これらの沿岸は、山梨県の郡内(ぐんない)地方で狭いながら数少ない耕地、居住地、交通路を提供している。また、この河川は関東に近く湧水(ゆうすい)のため渇水期の流量が比較的多いため、古くから水路式の発電所が設けられ、また都市上水道源としても重要である。
[吉村 稔]
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出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
…幹線流路延長109km,全流域面積1680km2。上流は桂川といい,その水源は山中湖と,その北岸の山梨県忍野(おしの)村の山中にある。桂川が神奈川県に入って相模川となり,山梨県の道志(どうし)山地から流出する道志川を津久井(つくい)湖で,丹沢山地から流出する中津川を厚木市街地で合わせ,平塚市の東辺で湘南砂丘を切って相模湾に入る。…
…京都府北桑田郡南部から船井郡園部町,八木町と亀岡市を経て,保津峡(この部分は保津川とも呼ばれる)に入るまでの河川。保津峡の出口嵐山から下流は桂川と名を変えて淀川に合流する。丹波高地南東部の流水を集める河川で,全長83km。…
…桂川の古名。山城(山背)国葛野郡を流れていたところから郡名をとって葛野川と称された。…
※「桂川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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