朝日日本歴史人物事典 「鈴鹿甚右衛門」の解説
鈴鹿甚右衛門
生年:文政2.1(1819)
江戸後期の商人。初代橋本屋甚右衛門の長男。近江国(滋賀県)生まれ。幼名は甚助。のち鈴鹿姓を名乗る。1820年代父と共に北海道に渡り,江差で呉服商を営んだ。上方との取引を積極的に行い,松前や弘前にも商権を広げて,江差屈指の豪商となる。安政4(1857)年,父の死去により2代目を襲名。蝦夷地の西海岸は道路が未整備のため,甚右衛門父子は津軽の長坂庄兵衛と計って太田山道,狩場山道の自費開削を行った。安政4年には,江差・箱館間の鶉山道を完成させた。しかし,初代甚右衛門が「実に壱ケ場所位仰せ付けられ候ては,此新道切開の雑用覚束なく」と述べているように,単なる公共目的の道路開削ではなく,自らの商業活動の拡大という意図も存在したのである。<参考文献>高倉新一郎『北の先覚』
(桑原真人)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報