サボア(サボイア)、ピエモンテ、リグリア、サルデーニャ島からなり、トリノを首都とする北イタリアの領邦国家(1720~1861)。王家は中世のサボア地方発祥のサボイア家で、同家はその後北イタリアに領土を拡大し、15世紀よりサボイア公国と称した。公国は17世紀前半以来フランスの衛星国の立場に置かれたが、ビットリオ・アメデオ2世(公位1675~1720、初代サルデーニャ王、在位1720~30)はフランスと反仏大同盟との間にあって巧みに対処し、フランスからの独立と失地回復とに成功した(1697)。ついでスペイン継承戦争においても、ふたたび対フランスの国際関係を自己に有利に利用しつつ北イタリアの領土とシチリアおよび王位を獲得した(1713)。しかし、その後オーストリアのためにシチリアの譲渡を余儀なくされたが、かわりにサルデーニャSardegnaを得て、ここにサルデーニャ王国が誕生した(1720)。
王国初代の王ビットリオ・アメデオ2世と2代目のカルロ・エマヌエレ3世(在位1730~73)は、内外政に注目すべき成果をあげ、フランス絶対主義を模範とした中央集権的国家の基礎を築いた。すなわち、農業と教育の改善、刑法と民法の統一、行政改革、貴族や聖職者の封建的諸特権の制限などである。とくにカルロ・エマヌエレ3世は、外政において先王の例に倣い、ポーランド継承戦争やオーストリア継承戦争に参加し、つねに勝者の側にたちつつ、ロンバルディア地方に領土を広げた。また、同王は本土とサルデーニャの経済発展に努力し、とりわけ織物工業を育成した。しかし次のビットリオ・アメデオ3世(在位1773~96)の治世の下で官僚的軍国主義の性格を強めた王国は、フランス革命軍の侵入の結果、政治的・軍事的崩壊の危機を迎え、1796年のパリ和約によりサボア、ニースの譲渡とピエモンテの占領を余儀なくされた。マレンゴの戦い(1800)ののちピエモンテはフランスに併合され、王家はイギリスの保護の下にサルデーニャ島に難を避けた。
1814年ナポレオン1世の没落とともにビットリオ・エマヌエレ1世(在位1802~21)はピエモンテに帰還し、翌年ウィーン会議はサボアの一部を除く全旧領と旧ジェノバ共和国領の王国への帰属を決定した。しかし王は、ナポレオン1世によって導入された秩序の完全な撤去と反動的復古政策を実行しようとしたために、1821年ピエモンテで自由主義革命が起こり、憲法制定を迫られた。この圧力に屈して王は退位し、モデナにいた王弟カルロ・フェリーチェに譲位することになったが、新王の即位まで王の遠縁にあたるカルロ・アルベルトが摂政(せっしょう)についた。カルロ・アルベルトは憲法制定を約束したが、その後帰国した新王はこの約束を否認し、オーストリア軍の援助を得て革命勢力を鎮圧した。カルロ・フェリーチェに次いで即位したカルロ・アルベルト(在位1831~49)は正統主義者として自由主義運動やマッツィーニの運動を厳しく弾圧したが、農業を中心に経済の近代的改革を漸次推し進め、王国の統治を担うことになる市民階級の形成を促す結果になった。
1848年2月パリに勃発(ぼっぱつ)した革命は翌月ウィーンに波及し、ミラノでは反オーストリア反乱が生じた。すでに憲法を発布していたカルロ・アルベルトは、この反オーストリアの国民的機運に押されて対オーストリア戦争に踏み切った。しかし緒戦の成功もつかのま、イタリア軍はオーストリアの反撃の前に屈し、翌年春に再開された対オーストリア戦争も失敗に終わり、王は失意のうちに退位した。しかし息子のビットリオ・エマヌエレ2世(在位1849~61、初代イタリア王、在位1861~78)が宰相カブールの援助を得て、1861年サルデーニャ王国を中心とするイタリアの独立と統一を成し遂げた。
[重岡保郎]
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1720~1861
トリノを首都とする北イタリアの王国。1720年,サヴォイア家がサルデーニャを獲得し,王位を与えられたことによって成立。富国強兵政策により領土を拡大した。ナポレオン期には対仏大同盟に参加するが敗北し,サルデーニャ島を残し半島部の領土をすべて失う。ウィーン会議後,旧領を回復したほか旧ジェノヴァ共和国領を獲得。1848年3月,国王カルロ・アルベルトのもとで憲法を制定して立憲体制となり,その直後に第1次イタリア‐オーストリア戦争を始めるが敗北を喫する。59年に国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のもとで第2次イタリア‐オーストリア戦争を行い,北イタリアを軍事征服。住民投票によって併合を決めた中部,ガリバルディらによって征服された南部をあわせ,61年にイタリア王国を形成した。
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…イタリアの政治家。サルデーニャ王国首相としてイタリアの統一を達成し,イタリア王国の初代首相となる。トリノの名門貴族の出。…
… スペイン継承戦争(1702‐13)に参加したサボイア公国は,はじめフランス側,のちに反仏同盟側へと巧みに戦争を乗り切り,ユトレヒトの和約(1713)でシチリア島を獲得,王国となる。シチリア島は1720年のハーグの和約でサルデーニャ島と交換され,ここにサルデーニャ王国Regno di Sardegnaが誕生する。ビットリオ・アメデオ2世に始まる18世紀の3代の王たちは封建的諸特権,教会特権を制限し,より中央集権的な政治機構を整備するとともに,軍事力の強化に努めた。…
…北隣のコルシカ島(フランス領)のほうが歴史的にイタリア半島部と文化的関係が深かったこともあって,コルシカの言語の方がサルデーニャ語よりもずっとイタリア語に近い。また,1718年にトリノを都とするピエモンテがサルデーニャ島を領有してサルデーニャ王国を名のったため,ピエモンテとの結びつきを強め,勉学あるいは就労のために島外に出る場合,ピエモンテに行く場合が多かった。
[自然]
地質学的に見ると,サルデーニャは隣のコルシカ島とともにすでに古生代に陸化した部分を含んでいる。…
…島の北東部にヨーロッパ最大の活火山であるエトナ山(標高3323m)があり,最近では1983年に大噴火をみせた。
[サルデーニャ王国からイタリア王国へ]
ブルボン朝の両シチリア王国のもとにあったシチリアは,1860年ガリバルディらの遠征隊に征服された。これに対して,サルデーニャ王国のカブールはシチリアをサルデーニャ王国に併合することを策した。…
…ポー平原の西端に位置し,イタリア半島とフランスを結ぶ交通の要地を占める。旧サルデーニャ王国の首都としてかつては行政都市だったが,19世紀末以来のめざましい工業化によりミラノに次ぐイタリア第2の工業都市となった。 ローマの軍事植民市アウグスタ・タウリノルムAugusta Taurinorumとして建設され,6世紀にランゴバルドの公領,8世紀にフランクの伯領となる。…
…
[カルボナリから青年イタリアへ]
ナポレオン体制が崩れたあと1815年以降のウィーン体制のもとで,イタリアには次の諸国家が分立する。サボイア朝のサルデーニャ王国,オーストリア支配下のロンバルド・ベネト王国,ハプスブルク家のトスカナ大公国,ローマ教皇の支配する教会国家,スペイン系ブルボン朝の両シチリア王国,それにパルマ公国,モデナ公国,ルッカ公国などで,全体としてオーストリアの強い影響下にあった。フランス支配期の市民的諸改革は後退して,各国とも旧制復古の政策がとられた。…
※「サルデーニャ王国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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