鉢伏城跡(読み)はちぶせじようあと

日本歴史地名大系 「鉢伏城跡」の解説

鉢伏城跡
はちぶせじようあと

[現在地名]今庄町二ツ屋

天正二年(一五七四)越前一向一揆勢が織田信長勢の侵攻に備えて築城したもので、鉢伏山頂(七六一・八メートル)にあり、北東に虎口、東側と西側には土居がめぐる。

天正二年八月二〇日付専修せんしゆう寺賢会の書状(勝授寺文書)に「将又我等陣所者、鉢伏要害相拵踏候事候、三尾河内迄可有御登候間、乍大儀御上候て城可御覧候、(中略)鉢伏、西光寺・正闡坊・今小路・照護寺・我等五人して相踏候、一段手広なる山候間難儀まで候」と記され、西光さいこう(現鯖江市)正闡しようせん(現武生市陽願寺か)今小路いまこうじ(現京都市下京区常楽寺)照護しようご(現福井市)・専修寺(廃寺)の五ヵ寺で当城を守っていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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