改訂新版 世界大百科事典 「鍾匱の制」の意味・わかりやすい解説
鍾匱の制 (しょうきのせい)
大化改新の発足当時,朝廷が投書によって人々の訴えを聞こうとした制度。《日本書紀》によると,645年(大化1)8月5日に改新政府は朝廷に鍾(鐘)(かね)と匱(ひつ)を置き,憂訴したい人はだれでもその人の伴造(とものみやつこ)や尊長の承認を得た上で訴状をその匱に入れ,それに対する政府の処置が怠慢あるいは不公平と思われたときにはその鍾を撞くべき旨の詔を出し,また翌年2月15日に,地方から租税などを運んで上京した人々を,政府が中央にとどめて不当に諸所の雑役に駆使していることを指摘した訴状を匱に入れたものがあったので,それらの雑役を停止することにする旨を述べた詔を出している。これは君主が直接に民の声を聞くという儒教的な政治思想に基づく施策で,中国古典にその先蹤が見られ,唐の則天武后も686年に同様の銅匭(どうき)の制を定めている。日本では大化前代の古い習慣とは関係がなく,のちの律令制度にも受け継がれず,まったく一時的なものに終わったが,天皇は訴状に年月を題するだけで,審議は群卿にゆだねるとしている点は,のちの太政官会議や公卿会議の方式に通ずるものがある。
執筆者:関 晃
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報