長楽寺永禄日記(読み)ちようらくじえいろくにつき

日本歴史地名大系 「長楽寺永禄日記」の解説

長楽寺永禄日記
ちようらくじえいろくにつき

三冊

成立 永禄八年

原本 新田郡尾島町長楽寺

解説 天文一七年に長楽寺住持となった賢甫義哲の日記。永禄八年分の三冊(袋綴じ)。長楽寺蔵本は義哲筆の原本といわれ、他に内閣文庫、宮内庁書陵部などに写本がある。当時の長楽寺は新田領内の平塚・八木沼・女塚・相根四郷の領主であり、新田金山城主由良成繁の配下に属していた。そのため当時上杉謙信方であった由良氏の対北条・対武田軍事行動や領内支配の様子が活写され、長楽寺自体も長手城下町建設のための人夫差出や武運長久の祈祷活動を行っていたことがみえる。寺内諸行事や宗教活動に詳しく、贈答儀礼や食生活、寺入り慣行や寺領での勧農行為など、社会史研究のうえで貴重な幾多の事例がみられる。日記は九月晦日で終わっているが、義哲は慢性的な歯痛・下痢に悩まされており、あるいは衰弱・死亡などで書続けられなくなっていたのであろう。

活字本群馬県史」資料編五

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報