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「長楽寺」の意味・読み・例文・類語
ちょうらく‐じ〔チヤウラク‐〕【長楽寺】
京都市東山区にある時宗の寺。山号は黄台山。延暦年間(782~806)最澄の創建と伝え、初め天台宗で、南北朝時代に国阿が中興し、時宗に改めた。
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ちょうらく‐じチャウラク‥【長楽寺】
- [ 一 ] 群馬県太田市にある天台宗の寺。はじめは臨済宗。山号は世良田山。承久三年(一二二一)栄西の弟子、栄朝が新田氏一族の得河(世良田)義季の帰依をうけて創建。寛永一七年(一六四〇)天海が再興して、同一九年現宗に改宗。
- [ 二 ] 京都市東山区円山町にある時宗の寺。はじめは天台宗。山号は黄台山。延暦年間(七八二‐八〇六)最澄が創建。至徳二年(一三八五)時宗の国阿が再興して現宗に改宗。境内に頼山陽の墓がある。
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長楽寺
ちようらくじ
[現在地名]尾島町世良田
世良田集落の西方、早川左岸に位置する。世良田山(良田山)と号し、天台宗。本尊は釈迦三尊。初め臨済宗であったが、寛永一七年(一六四〇)天海が入寺、同一九年天台宗に改められ、真言院という院号が加わった。西を南流する早川は大きく蛇行して東へ流れを変え、世良田の西と南に自然の周濠を形づくる。集落のほぼ中央で東西に走る国道三五四号と、南北に走る主要地方道大間々―深谷線が交差し、その南西部を寺域が占める。大間々―深谷線に面して総門があり、その南に朱塗の勅使門がある。勅使門の内側(西側)に蓮池があり、渡月橋という石の太鼓橋が架かる。橋を渡った正面が本堂(旧三仏堂)で、その西に太鼓門、さらにその奥に開山堂がある。開山堂と並んで北側に大師堂(旧表玄関)・庫裏、南側に文殊山があり、宝塔・宝篋印塔・層塔が並んでいる。開山堂の後方には長楽寺住持歴代の墓地と、新田岩松家の墓地がある。墓地の西には南北に土塁跡と濠跡が残り、寺域の西端を示している。明治初年までは寺の南方に接している世良田東照宮・東毛歴史資料館の辺りまでを含む約六万坪の地が寺域となっていた。
〔開基と開山〕
開基は、新田庄の開発領主で新田氏の祖である義重の子、義季とされる。義季は世良田郷を含む新田庄南西部一九ヵ郷の大部分を父から譲られ(仁安三年六月二〇日「新田義重置文」長楽寺文書など。以下寺蔵の諸史料は個別文書名のみ記す)、義季の子頼氏は世良田氏を称した。文永九年(一二七二)一一月一八日付長楽寺住持三世の院豪置文には「世良田地頭御建立長楽寺」、観応三年(一三五二)三月一一日の長楽寺寺領注文には「開山檀那新田次郎義季法名栄勇」とあり、世良田郷の地頭である義季が長楽寺の開基となっている。世良田の地は義季が父義重より譲られた所領の中心的な位置にあり、世良田氏の館があった。館内にあった持仏堂が発展し、やがて氏寺長楽寺となったのであろう。開山は臨済宗の開宗者栄西の弟子栄朝である。長楽寺の世代を記した「禅刹住持籍」(建仁寺両足院蔵)によると、「開山第一祖栄朝和尚号釈円 嗣明庵西承久三年辛巳歳五十七開長楽禅苑住二十七年宝治元年丁未九月二十六日戌時寂塔于大光庵寿八十三歳」とみえ、承久三年(一二二一)当寺が創建され、栄朝は招かれて開山となり二七年間住持として在職した。栄朝は師栄西より禅密兼修の学風と葉上流の灌頂をうけ、蓮華流と併せて相伝して世良田流を創始した。
長楽寺
ちようらくじ
[現在地名]東山区円山町
円山公園の南東、東山三十六峰の一である長楽寺山麓に位置し、寺門・本堂とも西面する。眼下に市街を望み、当寺東方の道は将軍塚に通じる。時宗。黄台山と号し、本尊千手観音(立像一尺三寸)。
〈京都・山城寺院神社大事典〉
〔最澄開創伝承〕
「後拾遺集」「本朝文粋」「今昔物語集」「本朝無題詩」など文学作品に名がみえるが、創建については不詳である。「拾芥抄」は宇多院のとき、双林寺の北、祇園の東に建てられ、本尊は十一面観音、あるいは准胝観音とする。文永一二年(一二七五)成立の「阿娑縛抄」は、延喜年中(九〇一―九二三)宇多天皇の持仏准胝金銅小立像観音を本尊として寛雅が建立したという。また「山州名跡志」(正徳元年刊)は延暦年中(七八二―八〇六)最澄が開いたと伝え、最澄が唐から帰国の途次、海上で嵐にあったが祈念すると治まり、竜神に載った千手八臂十一面観音像が現れて最澄の袖に入った。桓武天皇が寺を草創し像を安置したが、像の台座には最澄が彫った竜形がわだかまっていると紹介する。同書は寺名を、風景が唐の長楽寺に似ているので号したとするが、江戸時代の地誌も、これらの説を伝えている。
〔天台宗時代〕
当寺は平安時代から中世中頃にかけ天台山門(比叡山延暦寺)に属した。「今昔物語集」巻一三には、長楽寺の僧が供花を採りに山中に入り、法華経を読誦して入定の老尼に会う話があり、この辺りの山奥は古来僧尼の隠棲禅定の地だったようである。同書巻三一には、一条院の時代(九八六―一〇一一)に絵師の広高が新しい堂に籠って地獄絵を描いた。今も万人が見にいくが、この堂が長楽寺であると記す。「長秋記」には、元永二年(一一一九)一一月一四日、源宰相が雲居寺上人を導師として先妃のため小堂供養をし、また阿弥陀像を安置したと記す。寿永年間(一一八二―八五)には、青蓮院(現東山区)慈鎮の弟子隆寛が当寺総門内の来迎坊に住して源空(法然)に帰依し、浄土宗に入って多念義(小坂義派とも長楽寺流ともいう)を主張し、帰依する者も多かった。
長楽寺
ちようらくじ
[現在地名]日野町下榎
鵜ノ池の東、標高三五〇メートルの山腹に位置し、付近に旧長楽寺跡がある。医雲山と号し、曹洞宗。本尊は薬師如来(岩屋薬師)。地元では「岩屋さん」ともよぶ。黒坂泉龍寺所蔵の天保(一八三〇―四四)初期と思われる長楽寺古棟札によれば、鵜ノ池畔に毘沙門堂があり、平宗盛が当地下向の折にこれに感じ、薬師如来、日光・月光両菩薩と十二神将・不動尊を勧請して僧坊六院を建立、平氏の武運長久を祈ったが、平氏滅亡後に寺領没収、薬師堂を除いて僧院はすべて破壊されたと伝える。一方「日野郡史」は、僧院は天台宗の一巨刹に属し、僧坊一二院を有したが、平家滅亡の折に大山僧兵によって伽藍を焼かれたとする。その後、長谷部信連が一宇を建立、薬師堂に放置されていた諸仏を安置し、長楽寺(「伯耆志」は薬師寺とする)と称したというが(前掲棟札)、「日野郡史」は岩屋寺と称し、真言宗であったとする。
長楽寺
ちようらくじ
[現在地名]吉備町植野
白蕨山の北西山麓にある。摩尼山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊阿弥陀如来。江戸時代は興国寺(現和歌山県由良町)の末寺であった。寺伝によると興国寺の心地覚心(法灯国師)が隠居所を当地に設けたことに起源、「続風土記」は「亀山院の御宇七堂伽藍を建立し給ひ、寺領三百貫百姓三十六家を寄附し給ひ」と記す。現在の仏殿(国指定重要文化財)は一六世紀の再建、仏殿内に安置される本尊は鎌倉中期の作(吉備町誌)。
長楽寺
ちようらくじ
[現在地名]平群町吉新二丁目
竜田川東岸に所在。勝出山と号し、真言宗豊山派。本尊聖観音。寺伝によれば用明天皇二年聖徳太子の建立で、応永二年(一三九五)諸堂を焼失。すぐに復興されたが、天正年間(一五七三―九二)松永久秀が信貴山城(現平群町)に籠城した際に所領は没収となったとある。現本堂は四柱造で、瓦の刻銘によって慶長一六年(一六一一)に再興されたことが知られる。
長楽寺
ちようらくじ
[現在地名]藤枝市本町一丁目
岡出山の麓にある。青龍山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は釈迦如来。鎌倉時代、粉川長楽斎が開基となって鎌倉建長寺開山蘭渓道隆を請じて創建したと伝える。中興開山は芝巌徳香(正中二年没)。文明五年(一四七三)八月一九日、連歌師正広は幕府評定衆摂津之親に同伴して之親の所領益頭庄に下り、庄内藤枝の長楽寺に入っている(→鬼岩寺)。
長楽寺
ちようらくじ
[現在地名]村上市羽黒町
城下の南方、臥牛山の西方の山腰からさらに西へ延びる丘陵があり、中央部は山居山と通称される。麓には東から社寺が並び、当寺は満福寺の西にある。万年山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。天文一三年(一五四四)の創建と伝え、はじめ猿沢村(現岩船郡朝日村)にあり、その後里本庄村(現同郡神林村)、次いで現在地に移ったとされている。開基は耕雲寺一一世三心宗伊、大檀越は本庄繁長といわれる(宝永二年「寺社旧例記」北方文化博物館蔵)。
長楽寺
ちようらくじ
[現在地名]佐伯町矢田
吉井川左岸沿いにある。杉沢山と号し、天台宗、本尊聖観音。もと金山寺(現岡山市)末。昭和一〇年(一九三五)前後に現在地に移り、もとは東方の杉沢山上にあった。報恩大師創建と伝える備前四八ヵ寺の一つ。縁起および「備陽記」などの地誌によれば、古くは寺領一五〇石・三二坊を数えたという。文治年中(一一八五―九〇)源頼朝が祈願所として寺院一五ヵ寺を建立、天正年中(一五七三―九二)には天神山城主浦上宗景の祈願所となったと伝える。「備陽国誌」に古人判物奉納の類として浦上宗景寄付の太刀一口などが記される。
長楽寺
ちようらくじ
[現在地名]室生村田口元角川
角川垣内の東部、室生川右岸の台地にある。大林山と号し、融通念仏宗。本尊地蔵菩薩。もとは真言宗に属し、室生寺(現室生村)の末寺であった。天長年間(八二四―八三四)には創建されたとみられ、室生寺の縁起「宀一秘記」に「東以田口長楽寺為大門」と記され、室生寺四門の一に数えられている。中世にはたびたび堂宇を焼失して本尊の地蔵菩薩を残すだけとなっている。
長楽寺
ちようらくじ
[現在地名]木更津市請西 高部下
請西東部の丘陵中腹にある。もとは山城国醍醐三宝院末であったといわれ、のち真言宗豊山派中本寺(門末四三ヵ寺)となる。上総四本寺の一つ(上総国町村誌)。清滝山明王院と号し、本尊の薬師如来坐像(木造)は鎌倉時代の作とされ県指定文化財。寺伝では鎌倉時代末期稲荷山長国寺として創建され、請西本郷にあったが、文安二年(一四四五)に融源が長楽寺を開基、永禄年間(一五五八―七〇)に現在地に移転したという。天正一八年(一五九〇)七月、豊臣秀吉の関東平定に際し、当寺へ兵火の及ぶことを禁じる制札(県指定文化財)が出された。
長楽寺
ちようらくじ
[現在地名]下田市三丁目
了仙寺の東隣に位置する。大浦山と号し、高野山真言宗。本尊は薬師如来で、文明七年(一四七五)に鍋田の海中から出現したと伝承される。弘治二年(一五五六)に創建され、開山は尊有という。天正一一年(一五八三)五月一二日の北条氏勝・同直重連署状(長楽寺文書)に長楽寺とみえ、大浦薬師の免田が安堵されている。安政元年(一八五四)一二月二一日、当寺でロシア使節プチャーチンと日本側全権筒井肥前守・川路聖謨との間で日露和親条約の調印および批准書交換が行われた(「下田奉行上申書」幕末外国関係文書)。
長楽寺
ちようらくじ
[現在地名]石鳥谷町黒沼
奥州街道と北上川に挟まれた黒沼集落中にあり、強淵山(弘円山)と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。「邦内郷村志」によれば、かつて矢の根館のうちにあり、本尊として絵像を掛けていたので村人は絵像長楽寺とよんだ。戦乱のため現在地に移ったが、旧地を里人は絵像とよび、それが誤って江曾となり、村名ともなったと記される。寺伝によれば、建長年間(一二四九―五六)藤原源太夫弘長が大和国より奥州へ下り、入道恵休と名乗って江曾村で恵明庵を営み、のちに三世長心の時に長楽寺と称したという(石鳥谷町史)。
長楽寺
ちようらくじ
[現在地名]山口市大字吉敷 佐畑
吉敷の中心佐畑にあり、浄土宗西山禅林寺派。五園山と号し、本尊阿弥陀如来。
開山・開基は不明であるが、長楽寺所蔵の嘉吉二年(一四四二)九月二一日付の大内教弘の書状(「注進案」所収)を載せる。それには「周防国吉敷東庄内楽々谷長楽寺住持職并伊賀地神領壱町等事、任応安七年九月六日香積寺殿証判之旨、寺務領掌不可有相違之状如件」とあり、南北朝期からの古寺である。
長楽寺
ちようらくじ
[現在地名]十日町市高島 宮ノ上
高島の集落の北東端の字宮ノ上にある。曹洞宗、龍沢山と号し、本尊釈迦牟尼仏。もと信濃川の川原近くの字鴨田にあったが、明治初期の数次の洪水で、同四一年(一九〇八)現在地に移転。寺伝によると、天正一四年(一五八六)雲洞庵(現南魚沼郡塩沢町)一五世宗達を開山とし、琵琶懸城主長尾義景を開基とする。
長楽寺
ちようらくじ
[現在地名]南区呼続町六丁目
日恵山と号し、曹洞宗。本尊は大日如来像。寺伝によれば、戸部道場寛蔵寺と称したが、文明六年(一四七四)義山が再興して長楽寺と改号、明谷を中興の祖として真言宗より曹洞宗に改めた。大永五年(一五二五)今川氏親により諸堂の修築再建が行われたという。
長楽寺
ちようらくじ
[現在地名]川辺町三百瀬
三百瀬集落の西端に位置する。河南山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。九品寺同末寺由緒書(九品寺文書)によると、暦応三年(一三四〇)了空の開山といい、「旦方藤野川伊藤川三百瀬村古ヨリ三ケ村之寺ニ而御座候」と記す。もとは真言宗であったといわれ、境内に室町時代中期頃と推定される五輪塔や宝篋印塔が残る。
長楽寺
ちようらくじ
[現在地名]日高町上石 水生
水生山(約一五九メートル)の南中腹、水生城跡にある。水生山と号し、本尊薬師如来。高野山真言宗。縁起によると行基の開創で中世には一二坊あり、天正八年(一五八〇)羽柴長秀(秀長)軍による但馬進攻に際して水生城は落城、このとき全焼したという。正徳年間(一七一一―一六)に城跡のなかに一宇を再建、享保五年(一七二〇)庫裏を、寛政三年(一七九一)本堂(薬師堂)を建立(長楽寺記録)。
長楽寺
ちようらくじ
[現在地名]蟹田町蟹田
集落中央、街道の西にある。竜峰山と号し、真宗大谷派、本尊阿弥陀如来。もと弘前真教寺末。開創の年代に関し、寺伝では寛文一〇年(一六七〇)能登の輪島(現石川県輪島市)長楽寺の慶西が中師村に開いたといい、真教寺にある末寺由緒書によれば同八年行春が中師村に開いたともいう(新撰陸奥国誌)。
長楽寺
ちようらくじ
[現在地名]一戸町小繋
小繋の下平にあり、小繋山と号し、天台宗。本尊地蔵菩薩は延命地蔵として知られ、「邦内郷村志」に「本尊雲慶作、自往古云秘仏也、開基大同二年也、天正年中焼亡、以来其由来不伝漸々邑老伝而已」と記す。明治初年の「新撰陸奥国誌」には「長楽寺、境内千百五十一坪、本村の中西側にあり(中略)草創の年代詳ならす開山の僧を円三と云ふ」として、「本堂、東西六間南北九間東向慈覚作の地蔵を本尊とす、或記に延命地蔵雲慶作、大同二年草創にして天正中焼失し旧記伝らず、只俚人の口碑に存するのみ」と記される。
長楽寺
ちようらくじ
[現在地名]三重県紀伊長島町長島 新町
紀伊長島町の中央部の山麓に位置。城腰山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。寛永一二年(一六三五)僧賢誓の開基。宝永四年(一七〇七)の地震津波のため記録・什器などが流失した(北牟婁郡地誌)。
長楽寺
ちようらくじ
[現在地名]松山市西垣生町
栴檀山教王院長楽寺という。真言宗智山派。本尊は阿弥陀如来。寺伝によると、天平宝字四年(七六〇)に創建され、一一の末寺をもったが、天正年中(一五七三―九二)の兵火と、正徳五年(一七一五)の洪水によって荒廃したという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
長楽寺 (ちょうらくじ)
京都市東山区にある時宗の寺。山号は黄台山。確かな創建開山は不明。最澄開基の伝がある。《今昔物語集》などによると,鎌倉時代までは僧尼の隠棲禅定の地であったらしい。寿永年間(1182-85)に慈鎮の弟子隆寛が入山。法然に帰依し多念義を主張したが,1227年(安貞1)奥州に配流された。この後,阿証房印西が入山。建礼門院出家の寺とするのは誤伝。ただし,建礼門院の供養の十三重塔と安徳帝御衣から作った幡2流が残存している。その後,衰微したが,時宗遊行派第7祖託阿の弟子国阿が1385年(元中2・至徳2)に入山し,時宗霊山派正法寺末となった。近世の朱印高8石4斗。文人墨客が遊び,頼山陽らの墓がある。また,一種の歓楽地の様を呈した。1870年(明治3)に遊行派に帰入,1908年七条道場金光寺を吸収。そのため,金光寺蔵の一遍上人像以下歴代遊行上人像や七条金光寺文書(いずれも重要文化財)がある。本尊は千手観音で洛陽三十三観音の一つである。
執筆者:梅谷 繁樹
長楽寺 (ちょうらくじ)
群馬県太田市の旧尾島町にある天台宗の寺。山号は世良田山,良田山。栄西の弟子栄朝を開山に,新田氏の一族世良田義季が1221年(承久3)に開基した寺で,もと臨済宗。開創期には,東国で最も初期の禅宗寺院であったため多くの修行者が参集し,弁円や神子(じんし)栄尊等も当寺で修行している。こうした反面,栄朝や2世蔵叟(ぞうそう)朗誉が台密の灌頂を受けた人であったため,当寺には密教の伝統も継承され,10世牧翁了一の時(1320年代)には灌頂道場普光庵が寺内に建てられ,禅密兼修という特色が永く続いた。室町時代に入り五山制度が整備されると,1342年(興国3・康永1)五山に次ぐ十刹の7位に補せられた。しかし近世初頭には寺勢が衰え,1640年(寛永17)南光坊天海の入寺によって天台宗に改宗され現在に至っている。長楽寺文書として著名な中世文書をはじめ,頂相(ちんぞう),肖像,彫刻等多数を蔵し,中世史研究に貴重な史料を提供している。
執筆者:山本 世紀
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
長楽寺【ちょうらくじ】
群馬県尾島(おじま)町(現・太田市)にある天台宗の寺。本尊釈迦三尊。1221年新田義季(にったよしすえ)が開基,開山は栄朝(えいちょう)。禅密兼修の寺として栄えた。室町幕府下では十刹(じっせつ)。1603年寺内に東照宮が勧請され,のち天海(てんかい)が入寺し天台宗に改宗。建治(けんじ)2年(1276年)銘の石造宝塔,長楽寺文書(中世文書115通)は重要文化財。
→関連項目世良田
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
長楽寺〔群馬県〕
群馬県太田市にある天台宗の寺院。1221年創建。創建当時は臨済宗で、室町時代には関東十刹の一つとされた。境内は「新田荘遺跡」として国の史跡、宝塔は国の重要文化財に指定。
長楽寺〔和歌山県〕
和歌山県有田郡有田川町にある臨済宗妙心寺派の寺院。1577年に建てられた仏殿は国の重要文化財に指定されている。
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
世界大百科事典(旧版)内の長楽寺の言及
【下田[市]】より
…水産業は沿岸・沖合漁業でサバなどの水揚げが多く,農業はミカン,花卉などが中心である。《延喜式》の名神大社伊古奈比咩命(いこなひめのみこと)(白浜)神社,下田条約締結の舞台となった了仙寺(史),長楽寺,アメリカ総領事館が置かれた玉泉寺(史),唐人お吉の墓がある宝福寺など史跡が多い。【塩川 亮】
[歴史]
江戸~大坂間の海上交通の要地として発展した。…
【世良田】より
…中世は,新田荘世良田郷で,12世紀中葉に新田義重によって空閑地(荒蕪地)として開発され,その後,義重の子義季系(世良田氏)の所領となった。義季は1221年(承久3)に栄西の弟子の栄朝を招いて臨済禅の[長楽寺]を開き,以後,この寺は中世を通じて禅宗と密教を兼修する関東の有力寺院となった。世良田郷は長楽寺の門前町として,市が開かれ,《太平記》に世良田の〈有徳人〉(富裕者)と記されるなど,この地方の経済の中心となった。…
※「長楽寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」