日本歴史地名大系 「阿内村」の解説 阿内村おうちむら 山口県:下関市阿内村[現在地名]下関市大字阿内現下関市の東部山間地域にあたり、村のほぼ中央を神田(かんだ)川が南流する。東は小月(おづき)・清末(きよすえ)、北は七見(ななみ)・上田部(かみたべ)(現豊浦郡菊川町)、南は山田(やまだ)・井田(いだ)・員光(かずみつ)、西は植田(うえだ)・内日下(うついしも)・内日上(うついかみ)の各村と接する。清末藩領。慶長五年(一六〇〇)の検地帳に「阿内村」とみえる。同一五年の検地帳によれば総石高は九〇七石余、田六八反余で石高八七〇石余、畠四町余で一二石余、百姓屋敷七五である。「地下上申」は、村名由来を<資料は省略されています>と記す。同書によれば、総石高一千九四七石余で、慶長一五年の検地石高に比し倍増している。 阿内村あうちむら 群馬県:前橋市阿内村[現在地名]前橋市亀里町(かめさとまち)・下川町(しもかわまち)東は寺家(じけ)村、北は矢島(やじま)村、西は横手(よこて)村。永和三年(一三七七)一月二八日の年紀をもつ大般若経(杉本坊師岡秀鎮氏蔵)巻四五〇の奥書に「上州群馬郡阿内極楽寺」とある。文明九年(一四七七)一月一八日「五十子諸将退陣、越州陣者白井ニ張陣、山内者阿内ニ張陣、河越ハ細井口ニ張陣、当方者金山ニ在城」とあり(松陰私語)、山内上杉氏勢が阿内に在陣している。このことは太田道灌状(島原市教育委員会蔵)にも記されるが、道灌状では「河内」と記されている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by