平安時代前期の女流歌人。生没年不詳。六歌仙,三十六歌仙の一人。出羽国の郡司良真の女。篁(たかむら)の孫,美材(よしき),好古(よしふる)らの従妹とされる。系図については諸説があるが,確かなことは不明。小町の名についても,宮中の局町に住んだことによるという説をはじめ諸説がある。王朝女流歌人の先駆者で,文屋康秀,凡河内躬恒,在原業平,安倍清行,小野貞樹,僧正遍昭らと歌の贈答をし,和歌の宮廷文学としての復興に参加した。その歌は恋の歌が多く,情熱的で奔放な中にも,現実を回避した夢幻的な性格をもち,哀調を帯びている。紀貫之が〈あはれなるやうにて強からず,いはばよき女の悩めるところあるに似たり〉(《古今集》序)と評したのは,よくその特徴をとらえている。作品は,《古今集》18首,《後撰集》4首以下,勅撰集に六十数首が収められており,ほかに《小町集》の110余首があるが,その中には他人の歌や後人の偽作もあり,勅撰集の歌を基本とすべきであろう。〈うたたねにこひしき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき〉(《古今集》巻十二)。
小町の経歴は不明なことが多いが,美貌の歌人として広く知られ,業平と好一対をなす女性として,多くの説話が語られ,さまざまな伝説が生まれた。東国の荒野を旅する業平が,風の中に歌をよむ声を聞き,声の主を探して草むらにどくろを見いだす。実はそこは小町の終焉の地であったという説話が,《古事談》などに見えている。小町のどくろの話はそれより早く《江家次第(ごうけしだい)》に見えるが,同じ平安時代後期の作と考えられる《玉造小町壮衰書》は,美女の栄枯盛衰の生涯を小町に託した長編の漢詩で,後世の小町伝説に大きな影響を与えた。小町の名は,《古今著聞集》《平家物語》《徒然草》をはじめ数々の古典にあらわれる。《八雲御抄(やくもみしよう)》には,順徳院が夢にあらわれた小町を,歌の神のように賛仰したことが記されているが,美女歌人の説話は,種々の歌徳説話,恋愛説話へ発展し,老後に乞食になり発狂したといった落魄の物語を生んだ。こうした伝説を集大成し,明確な文学的形象を与えたのは謡曲である。《草子洗小町》は,歌人としての名を傷つけられた小町が,大伴(友)黒主が書き入れをした草子を洗ってその奸計を暴露し,自分の名誉を守るとともに黒主に対しても寛仁の態度をとったという筋で,小町をたたえたもの。《通(かよい)小町》は,小町に恋した深草少将が,100夜通えば望みをかなえてやるという小町のことばを信じて,通いつめた99夜目にはかなくなったという話で,美女の薄情・驕慢な性格を描いている。《卒都婆小町》は,朽ちた卒都婆に腰かけた乞食の老女が仏道に入る話であるが,その老女は深草少将の霊にとりつかれた小町のなれの果てであったという筋。また《関寺小町》は,関寺の僧が寺の近くに住む老残の小町から歌の道を聞くという物語であり,《鸚鵡小町》も,新大納言行家が関寺近くに老いた小町を訪ねるという筋になっている。この5曲に《雨乞小町》《清水小町》を加えて七小町といい,江戸時代には七小町が歌舞伎の題材,浮世絵の画題などにしばしばとりあげられた。そのほかでは御伽草子の《小町草紙》が,業平と小町を観音の化身とし,歌道と仏道を結びつけて中世の小町伝説を集成している。小町の生地と墓は全国にあり,〈瘡の歌〉などの伝説は和泉式部伝説と重なるところも少なくないところから,小町の生涯を語り歩く唱導の女たちがいたことが考えられる。また小町伝説の流布には,全国にひろがる神官の小野氏の存在も無視できない。ともあれ,小町は美女の代名詞となり,才色兼備の女性としてたたえられる反面,冷酷高慢な性格をもたされ,その哀れな末路によって人間の無常をあらわし,美女に対する日本人の考え方を示す典型にもなっている。後には,最も美しい女性であった小町が,実は性的な不具者であったという伝説も生まれた。
執筆者:大隅 和雄
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平安前期の歌人。生没年・伝未詳。六歌仙、三十六歌仙の一人。小野氏の出であるが、父母も身分もつまびらかでない。小野氏系図や中世歌書には、良真(よしざね)(当澄(まさずみ)・常澄とも)の女(むすめ)とするが、いずれも後世の付会らしく、また近代以後、篁(たかむら)の女、篁の孫女、小野滝雄の女、藤原常嗣(つねつぐ)の女説なども現れたが根拠に乏しい。身分も『古今和歌集』目録の「出羽(いでは)国郡司女」などから采女(うねめ)説があり、「町」名から仁明(にんみょう)、文徳(もんとく)朝の更衣(こうい)説、また采女説が歴史的に成り立たないところから近年氏女(うじめ)説も現れ、中﨟(ちゅうろう)女房説もある。『古今集』目録に「母衣通姫(そとおりひめ)」とするのは、『古今集』仮名序に女歌(おんなうた)の系譜を述べた「小野小町は衣通姫の流れなり」の訛伝(かでん)。『小町集』は大別して2系統あるが、いずれも後代の撰(せん)で、『古今集』『後撰(ごせん)集』の小町歌を核に増益されたらしく、もっとも信頼できるのは『古今集』の18首である。それによれば、同族の小野貞樹や安倍清行(あべのきよゆき)、六歌仙の文屋康秀(ふんやのやすひで)らと交渉があり、文徳・清和(せいわ)・陽成(ようぜい)朝(850~884)あたりを活躍期とするようである。彼らとの贈答歌には、愛のうつろいを怨(うら)んだり、ことばじりをとらえて誠意の足りなさを責めたり、無抵抗になびいたりなど千変万化の媚態(びたい)がみられる一方、「題しらず」歌には、人生のむなしさや衰えを嘆き、現世でかなわぬ恋をはかない夢に賭(か)けるなど、純粋で情熱的な女人像がうかがわれ、これらの歌から生まれる印象が、色好みな女や遊女、零落した老女、貴人王族との悲恋など、さまざまな小町伝説を生む核となっていった。勅撰入集(にっしゅう)歌64首。『古今集』仮名序はその歌風を、「よき女のなやめる所あるに似たり」と評する。
[後藤祥子]
花の色はうつりにけりないたづらに我身(わがみ)よにふるながめせしまに
『片桐洋一著『小野小町追跡』(1975・笠間選書)』▽『山口博著『閨怨の詩人小野小町』(1979・三省堂)』▽『小林茂美著『小野小町攷』(1981・桜楓社)』
(山本登朗)
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生没年不詳。平安前期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の1人。系譜については諸説あるが疑わしい。経歴も未詳。歌は「古今集」仮名序に「あはれなるやうにて,つよからず。いはば,よき女のなやめるところあるに似たり」と評される。情念と哀愁をあわせもった恋歌が多く,王朝女流文学の先駆として重要な歌人。阿倍清行・小野貞樹(さだき)・文屋康秀(ふんやのやすひで)・遍照(へんじょう)らとの贈答歌が残る。「古今集」に18首など勅撰集入集は66首。家集「小町集」。美貌の歌人として知られ,平安後期以降さまざまの説話・伝説がうまれた。晩年には零落したとするものが多く,謡曲や御伽草子(おとぎぞうし)のような文学作品のほか,各地に遺跡と称するものが残る。
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…また(2)と(3)が結びつけられて,都にいられなくなった業平が東国に下る話が有名になり,単に東下りといえば,業平の東国への旅をさすほどになった。さらに,業平が奥州八十島で小野小町のどくろに会う話も種々の説話集に見え,一条兼良の《伊勢物語愚見抄》は,業平を馬頭観音,小町を如意輪観音の化身とする説をあげている。《伊勢物語》は,歌の心を涵養するために繰り返し読むべき古典とされ,《源氏物語》よりも重んぜられていたため,《雲林院》《井筒》《小塩》《杜若(かきつばた)》をはじめ,《伊勢物語》に取材する謡曲が数多く作られ,業平は能の舞台にも登場することになった。…
…後の随心院である。随心院は小野小町宅跡の伝承があり謡曲《通小町(かよいこまち)》《卒都婆小町》には,深草少将が墨染から百夜(ももよ)通った,という説話がある。境内には小野小町文塚と称するもの,その他がある。…
…ある日,名を尋ねると,市原野に住む者と答えて消える。僧が市原野に出向いて弔うと,小野小町の霊(ツレ)が現れて弔いを喜ぶが,そのあとを追って,やつれ果てた面ざしの四位少将の霊(シテ)が現れ,小町を引き留めてその成仏を妨げる。少将は,生前小町に恋をして百夜通ったが,ついに思いを果たせず,死後も地獄で苦しんでいるのだった。…
…近世になって渋川版御伽草子に収められ,普及した。天性の美貌と和歌の才で浮名を流した小野小町が,年老いて見るも無残な姿となり,都近くの草庵に雨露をしのいでいた。里へ物乞いに出ると,人々は〈古の小町がなれる姿を見よや〉とあざける。…
…本堂前の池泉観賞式庭園も美しく,境内は雅致に富み,国の史跡指定地。なお,当寺は小野小町の邸址といわれ,小町と深草少将の悲恋物語にちなむ伝承に富む。本堂安置の地蔵は多くの男性を悩ませた小町の罪障消滅を祈って,小町に寄せられた恋文を集めて造ったものと伝え,また境内の小野塔(文塚)は小町にあてた艶書を埋めた場所,小町井は小町がつねにこの水を愛して艶顔をよそおった井戸という。…
…鎌倉時代の関寺門前の様は《一遍上人絵伝》に見える。また老衰落魄した小野小町が関寺のかたわらの庵に住んでいたとする伝説(謡曲《関寺小町》など)があり,長安寺にはその遺跡と称するものがある。【山本 吉左右】。…
…世阿弥時代からある能。シテは老後の小野小町。7月7日のことである。…
…作者不明。シテは小野小町。宮中の歌合で小野小町の相手と決まった大伴黒主(ワキ)は,前日小町の邸に忍び込んで,小町が和歌を詠じているのを盗み聞きする。…
…観阿弥作。シテは老後の小野小町。高野山の僧(ワキ)が,道端の朽ちた卒都婆に腰をおろしている老婆(シテ)を見て,ほかの場所で休むように諭し,卒都婆は仏体そのものであるとその功徳を説いて聞かせる。…
…例えば,竹林にさらされて目の穴にたけのこが生えていたどくろが目の痛みを訴え,たけのこを抜いた男に恩返しをした話や,山で《法華経》を読むどくろに舌が腐らず残っていた話が《日本霊異記》にあるし,物語《二人比丘尼(びくに)》には骸骨姿のどくろの宴が描かれている。風流な例では,眼窩(がんか)からススキの生え出たどくろが〈秋風の吹き散るごとにあなめあなめ〉と上の句を詠み,これを小野小町のどくろと知った在原業平が〈小野とは言はじ薄(すすき)生ひけり〉と下の句をつけた話があり(《古事談》。似た話は《無名草子》にもある),理屈っぽい例には,荘子が枕にしたどくろが夢に現れ死の世界について問答した話(《荘子》至楽篇)などがある。…
…《千載集》巻四の〈夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里〉は藤原俊成が自作の最高の作と人々に語った(《無名抄》)歌として著名である。深草少将(伏見区西桝屋町の欣浄寺(ごんじようじ)がその宅址と伝える)が山科小野の随心院にあった小野小町の宅へ百夜(ももよ)通った伝説があり,謡曲《通小町(かよいこまち)》《卒都婆小町》《墨染桜》などに劇化されている。【奥村 恒哉】。…
…三河掾,山城大掾をへて879年(元慶3)縫殿助。《古今集》には,文屋康秀が三河掾になって県見(あがたみ)に誘った際に詠んだという,小野小町の〈わびぬれば身を浮き草の根を絶えて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ〉(巻十八)の歌がのせられている。このことは《十訓抄》《古今著聞集》などにも記された。…
…《万葉集》の後,和歌の道はまったくおとろえていたが,その時期に〈いにしへの事をも歌をも知れる人,よむ人多からず。……近き世にその名きこえたる人〉としてあげられた僧正遍昭,在原業平,文屋康秀,喜撰法師,小野小町,大友黒主,の6人のこと。序の筆者紀貫之より1世代前の人々で《古今集》前夜の代表的歌人として《古今集》時代の和歌の隆盛を導いた先駆者たちである。…
※「小野小町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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