日本歴史地名大系 「陌苅村」の解説 陌苅村あぜかりむら 長崎県:長崎市陌苅村[現在地名]長崎市畝刈町(あぜかりまち)・京泊(きようどまり)一丁目・さくらの里(さと)一丁目三重(みえ)村の東部にあり、南東部で多以良(たいら)川が海に注ぐ。地内に一里山が置かれた(慶安二年肥前国道法帳)。元禄郷帳・天保郷帳では平(たいら)村と合せて陌苅平村と記される。天正一五年(一五八七)夏に長崎町・浦上(うらかみ)村・家野(よの)村・外目(そとめ)村が公領(豊臣秀吉の直轄領)となり、慶長一〇年(一六〇五)九月長崎新町とその属邑が幕府領になるに伴い、浦上村・家野村・外目村は再び大村家領となったが、この外目村に陌苅平村と黒崎(くろさき)村(現外海町)および雪浦(ゆきのうら)村(現大瀬戸町)が含まれ、当時の田畑屋敷および小物成とも高二八八石余で、うち陌苅村一三五石余(「大村家記」など)。あるいは古くは三重村(外目村とも)のうちの黒崎村に陌苅村・平村が含まれ(大村郷村記)、慶長年間に分立したともいうが明らかではない。別に肥前佐賀藩家老の深堀鍋島家領が置かれた。元和八年(一六二二)のドミニコ会宛の大村ロザリオ組中連判書付に「あぜかり村」のキリシタン「森弥助こんさる」が署名している。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by