浦上村
うらかみむら
[現在地名]門前町浦上
田村の北、八ヶ川支流の浦上川流域の平地と丘陵および山地に立地。垣内に滝又・中屋・菅ノ原・大久保・判屋地・清太郎・蛇喰・正仏・大町・番頭屋・吉ヶ谷内・尺ヶ池・日砂・濁池などがある(能登志徴)。中世櫛比庄の内に成立した浦上村を継承したと思われる。正保郷帳では高七七〇石余、田方三四町二反余・畑方一七町一反余、新田高八〇石余、田方二町余・畑方一町二反余。承応三年(一六五四)の村御印の高八五四石余、免四ツ四歩(能登奥両郡収納帳)。
浦上村
うらかみむら
長崎村の北から西に広がる村で、浦上川が南流する。中世は彼杵庄のうちで、江戸時代の浦上村は諸村の総称であった。天正一二年(一五八四)有馬晴信が浦上をイエズス会に寄進、同一五年まで同会領であった。同一五年の九州仕置に伴い長崎町・浦上村・家野村・外目村はのち公領(豊臣秀吉の直轄領)となる(華蛮交易明細記)。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦後は幕府直轄領とされるが、同一〇年九月に長崎新町(外町)とその属邑、つまり長崎村内が幕府領となるに伴い浦上村・家野村・外目村は再び大村藩領になったという(大村見聞集)。ただし同藩領となるのは一部で、同年三月の大村領内高目録では「浦上ノ内」の北村・家野村・西村、および黒崎村(現外海町)・雪ノ浦(現大瀬戸町)が記される。慶長国絵図に「浦上村」とみえ、高三三二石余。正保郷帳(大村見聞集)では浦上古場村(浦上木場村)・浦上北村・浦上家野村・浦上西村が記される。
浦上村
うらかみむら
[現在地名]福山市春日町浦上
坪生村の西に位置し、北は安那郡下竹田村(現深安郡神辺町)、西の深津方面から入込んだ平野はかつての深津湾を干拓したもので、南の能島村との境にこの新涯へ灌漑用水を供給する春日池がある。浦上の地名は古代港湾としての浦の上方に集落が存在したことから称したものと解されている。古代より開発されていた証左として銭神に横穴式石室の古墳があり、谷一つ越えた能島の大蔭にも二基の横穴式石室が残存、春日池周辺に古墳群のあったことを推測させる。
浦上村
うらがんむら
[現在地名]名瀬市浦上
有屋村の北東に位置し、大熊湊のある西の入江と東の本茶峠を結ぶ道が通る。オラガン、オレガンともいう。グスク跡があり、内里・城田・塩間・有盛などの地名がある。伝承では当地は平家落人の一人平有盛が居城を構えた地とされ、その霊廟が有盛宮(有盛神社)で、二月・八月の初丙の日にノロクメによって祭事が行われ、村中で三木をこしらえて家ごとに奉納するという(大島私考)。近世、与人の道統は徳之島から鹿児島に渡海する際、大熊湊に停泊してこの神社に参詣、その航海の安全を祈願したという。当地の平家にはハブラ玉、バシャギン、玉入櫃などのノロ祭具が伝有されており、ノロの辞令書を琉球王府から下付されたとき、これらを併せて持帰ったものと考えられる。
浦上村
うらかみむら
櫛比庄に成立していた村。現浦上付近に比定される。応安元年(一三六八)三月二〇日の長谷部宗悟寄進状案(総持寺文書、以下同文書は省略)に櫛比庄のうち「うらかみのむら」とみえ、重代相伝の村内宮の腰にある三〇〇刈の田を総持寺延寿堂に寄進している。永徳元年(一三八一)一一月一三日にも浦上のかつか(香糠か)・宮腰前の田二段が延寿堂に寄進されている(某田地寄進状案)。同二年と推測される峨山和尚塔頭大雄庵田地注文によれば、当村内に沙弥芝叟の寄進による五段の田地(長円寺分)があった。応永六年(一三九九)六月日の総持寺寺領目録によれば、当村分として宮腰・香糠に三一〇束刈、田屋前・塚田に長円寺供料田五〇〇刈がみえるが、いずれも長谷部芝叟が寄進したとある。
浦上村
うらがみむら
[現在地名]不知火町浦上
東は小曾部村、南は下長崎村、北は栗崎村(現宇土市)に接し、東は平坦で西・南・北は高燥地である。村の中央に居屋敷、東に堀切、北に今古閑、南東に東割、北西に開廻などの字地がみえる(郡村誌)。慶長国絵図に村名がみえ、近世は郡浦手永に属した。「国誌」に「下村古屋敷村刈屋村等ノ小村アリ」とあり、正保郷帳では田方四二〇石六斗余・畠方六八石八斗余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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