大村城下(読み)おおむらじようか

日本歴史地名大系 「大村城下」の解説

大村城下
おおむらじようか

大村城(玖島城)城主であった大村氏が建設した城下町。大村のうち久原くばら分・池田いけだ分のうちにあり、西部は大村の内海に臨み、長崎市中や平戸方面に通じる長崎路が通り、大村宿が置かれた。「大村郷村記」には玖島くしま城下町とみえる。

〔町割と規模〕

慶長四年(一五九九)大村喜前は普請なった玖島城に移り、その東手に城下町を建設した。大村一族および大身家臣の屋敷割を行ったあと、外海一騎衆(外浦衆)の城下への集住を推進している。郭外に五小路と称されるほん小路・うわ小路・草場くさば小路・外浦ほかうら小路・小姓こしよう小路の町割が行われ、のち岩船いわぶね日向平ひなたびら・上久原・下久原が成立、城下の武家地を構成した。また武家地には玖島城を中心に会所花林かりん(大村家一族の別荘)、藩校の五教ごこう館、武術所である治振じしん軒の両館、産物役所・普請役所・内潟内練場・馬乗馬場・預人屋敷・大村牢屋敷・船蔵・船蔵役所・焔硝蔵などの諸施設が建造または開設された(大村郷村記)。本小路口の会所は寛文六年(一六六六)城中から移設したもので、評定所・奉行役所・勘定奉行役所・蔵奉行役所・郡代役所などを併設していた。

町人地はかた町・ほん町・町・水主かこ町の四ヵ町に大きく町割が行われ、のち片町筋に片町・長店ながみせ町・稲荷いなり町・ふくろ町が起立したほか、本町筋に本町・河岸端かしばた通・伊勢いせ丁・波戸はと丁・波戸浜はとはま丁・波戸横はとよこ丁、田町筋に田町・諫早いさはや丁・八幡はちまん丁・ふだの丁・萱瀬かやぜ丁・丹々川通たんたんがわどおり、水主町筋に水主町・水主町はま町が成立。また高札場・町役所・波戸船改番所・火番所・石橋口番所・本陣脇本陣・使者屋・駅場・村宿長屋などが設営された。「大村郷村記」によれば武家屋敷は一六七軒(安政三年改)で、町人地の竈数六七一軒のうち大給二・道具付一・小給一〇・旗組足軽一・殿組諸職人三〇・船手職人一・足軽三・足軽格三・台所人一・船手間人八・定水主一五・私領一二・座頭一・町役七・町年寄二・町人五六八・寺内三・浮竈一、男一千八二・女一千一一七。文化六年(一八〇九)当城下を通った対馬藩の役人一行は「町屋軒を並べ、大道幅五間計り有。城下の体、見事也」としている(楽郊紀聞)

〔町方支配と負担〕

町方は町奉行のもとに町別当が置かれ、行政をつかさどった。田町の町役所では町別当が一名勤番して町方行政を管掌したが、同役所は別当屋敷ともよばれ、町別当はのち町与力とも称された。文化九年当時の町奉行は川勝六郎兵衛で、市中見張役が一瀬喜左衛門、町与力が佐藤仁助、下役が一瀬右兵衛であった(伊能忠敬測量日記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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