須原屋茂兵衛(読み)すはらや・もへえ

朝日日本歴史人物事典 「須原屋茂兵衛」の解説

須原屋茂兵衛(4代)

没年:天明2.8.13(1782.9.19)
生年:享保16.11(1731)
江戸書肆の4代目。「すわらや」とも。名は恭,号は恪斎。北畠氏。茂兵衛は代々の称。家号は千鐘房。初代宗元が紀州有田郡栖原から出て,万治年間(1658~61)に創業し,明治37(1904)年まで営業した。須原屋一統の本家で,幕府御書物師を務め,大名屋敷にも出入りし,元禄(1688~1704)より『武鑑』『江戸絵図』を中心に,幅広く書物を扱う日本橋通1丁目の名物書肆。恪斎は垣内氏から入り,京都出身の有力書店勢と競うなか,逆に京都に仕入れ店を出すなど経営拡大に努め,宝暦(1751~64)以後,目ざましく発展。伊藤蘭嵎,渋井太室に学び,自ら熊野の地誌をまとめた『熊野遊記』(1801)を残した。<参考文献>今田洋三『江戸の本屋さん』

(安永美恵)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「須原屋茂兵衛」の解説

須原屋茂兵衛 すはらや-もへえ

?-? 江戸時代前期の本屋。
万治(まんじ)年間(1658-61)に生地紀伊(きい)有田郡(和歌山県)栖原(すはら)村から江戸にでて開業。武鑑類や江戸図類の版権をとり,江戸最大の書物問屋となった。茂兵衛家は須原屋一門の総本家で,明治37年まで9代つづいた。姓は北畠。名は宗元。家号は千鐘房。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の須原屋茂兵衛の言及

【武鑑】より

…さらに記載事項の増加した《本朝武鑑》や元禄年間(1688‐1704)の《太平武鑑》《正統武鑑》など,宝永・正徳(1704‐16)の《賞延武鑑》《一統武鑑》などが刊行された。また,江戸の須原屋茂兵衛によって元禄・宝永期の《太平武鑑》《一統武鑑》に続いて《正徳武鑑》(1716)が刊行され,以後年号を付して逐次改版して幕末まで続いた。出雲寺和泉掾刊行の《大成武鑑》も元文(1736‐41)ころから続刊された。…

【本】より

…また,江戸時代には俳書がよく出版されるが,元禄(1688‐1704)ごろからは京都の井筒屋庄兵衛がこれを独占し,同様に謡本では山本長兵衛,浄瑠璃本では山本九兵衛などが独占した。江戸では須原屋茂兵衛の〈武鑑〉〈地図〉,大坂で炭屋五郎兵衛の後藤(芝山)点〈四書〉〈五経〉のような独占を生じた。 蘭学書ははじめ禁制であったが,のち禁を緩め,1774年(安永3)杉田玄白訳《解体新書》(5冊)に始まり,天文学,科学,暦法に及び,幕末には兵書が多くなる。…

【本屋】より

…江戸ははじめ上方有力本屋の出店が多かったが,18世紀後半から江戸で成長した本屋が活躍した。《武鑑》や江戸地図,さらに漢学・蘭学の本を出した須原屋茂兵衛とその一門,歌麿や写楽の浮世絵を刊行し,黄表紙にベストセラーを出した蔦屋重三郎(つたやじゆうざぶろう)など特色ある本屋が現れた。江戸の本屋は19世紀初めで80軒ほどであった。…

※「須原屋茂兵衛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android