養巴ノ丁(読み)ようはのちよう

日本歴史地名大系 「養巴ノ丁」の解説

養巴ノ丁
ようはのちよう

[現在地名]中央区大名だいみよう一丁目・赤坂あかさか一丁目

雁林がんりんノ丁・紺屋こうや町の南に東西に延びる両側町。福岡博多近隣古図では「薬院 養巴町」と記される武家町で、東西は一〇四間半。西端は福岡城の東側のおお堀に臨む。延享三年(一七四六)の福岡城下屋敷全図写(県立図書館蔵)にみえる「養巴ノ丁」、宝暦一三年(一七六三)に福岡藩六代藩主黒田継高の子息長経の葬送が福岡城追廻おいまわし門から養巴ノ丁・鉄砲てつぽう町を経て、薬院やくいん門から因幡いなば丁を通って博多崇福そうふく寺へ至ったという「新訂黒田家譜」の記載が、町名を記した比較的早いものと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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