日本歴史地名大系 「四番町」の解説 四番町よんばんちよう 京都市:上京区仁和学区四番町上京区仁和寺街道六軒町西入北の一部を中立売(なかたちうり)通、中央を仁和寺(にんなじ)街道が東西に通り、やや東寄りを六軒町(ろつけんちよう)通が南北に通る。平安京大内裏の「大蔵省」から「大歌所」にかけての跡地(「拾芥抄」宮城指図)。町名由来は一番町と同じだが、現町域は明治二年(一八六九)二月、「三ツ石町」(中立売通上ル)・「西蓮寺南町」(中立売通下ル)・「相生町」の三町を加えたものである(坊目誌)。三ッ石町(藪ノ辻子ともいう)は明和四年(一七六七)茶屋営業の許可を得て、東隣の五番町の国生(こくしよう)寺境内に開かれた街区で、明治維新前は上西陣組の離レ町で、五軒役を負担した。 四番町しばんまち 福井県:大野市大野城下四番町[現在地名]大野市本(ほん)町・元(もと)町・錦(にしき)町・明倫(めいりん)町四番通の両側町。道幅五間。中央に用水が通る。東は五番(ごばん)町、西は三番(さんばん)町。このうち七間(しちけん)通と八間(はちけん)通の間は鍛冶(かじ)町。寛保三年(一七四三)の町絵図(「奥越史料」所収)によれば、高四八・九八四石で、家数六〇(うち寺三)。文久二年(一八六二)五月の人別寄帳控(布川家文書)によれば、男二二五・女二三九、家数六六(本家のみ)、馬一。町の南部西側に真宗大谷派明源(みようげん)寺がある。開基正信は越中国の人、文禄二年(一五九三)本願寺教如の弟子となり、紀州鷺(さぎ)ノ森(もり)(現和歌山市)まで随行。 四番町よばんちよう 愛媛県:松山市松山城下四番町[現在地名]松山市千舟町(ちふねまち)三―四丁目付近松山城下町の南部に位置し、三番(さんばん)町・湊(みなと)町に平行する東西の町筋とその周辺を含む。東は小唐人(ことうじん)町、西は榎(えのき)町、南は湊町、北は三番町に接する。初めこの地域を広く代官(だいかん)町と総称したようで、元禄―正徳年間(一六八八―一七一六)と推定される松山秘図(伊予史談会蔵)に代官町四番町とあるのを初見とする。また同図によれば、山手代官(やまてだいかん)町ともよんだことが知られる。 四番町よばんちよう 東京都:千代田区旧麹町区地区四番町[現在地名]千代田区九段北(くだんきた)三―四丁目明治五年(一八七二)に表四番町(おもてよばんちよう)通の北側と裏四番町(うらよばんちよう)通の南側の一部を画して成立。東は富士見(ふじみ)町三丁目、南は三番(さんばん)町、北西は外堀。読みは同六年駅逓寮編「地名字引」が「シバンチヨウ」、「千代田区史」が「よばんちょう」とする。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by