出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
東京都港区北部一帯の地区名。1878年,東京府15区の一つ(青山方面の一部を含む),1932年には東京市35区の一つとなり,47年,麻布,芝の2区と合併して東京都23区の一つ港区が成立し,その一部となった。武蔵野(山手)洪積台地の一部で,標高20~30mの台地を多くの谷が刻んでいる。江戸時代には,城南地区の典型的な大名・武家屋敷地であった。かつての紀州徳川家上屋敷跡は,迎賓館(かつての赤坂離宮),東宮御所,秩父宮邸,三笠宮邸などとして利用されている。アメリカ大使館など外国の大公使館や高級住宅が多く,落ち着いた地域となっているが,赤坂見附から溜池へかけては,ホテルなどが集中している。地下鉄銀座線赤坂見附駅(1938設置)で丸ノ内線が交差する。東洋美術,漢籍などを集めた大倉集古館,乃木神社,氷川神社,豊川稲荷がある。現在,〈赤坂〉のつく行政上の地名は,港区の赤坂,元赤坂に限られているが,より広い範囲で使われている。
執筆者:正井 泰夫
近世には江戸城南地域の称で,東は江戸城外堀で限られ,西は青山,南は麻布,北は四谷に隣接する。地名の由来は,紀州屋敷辺を赤根山(茜山)といい,そこへの登り口(紀伊国坂)を赤根山の坂と称したことから転じた赤坂の名が一帯の名称となったという。また赤土の坂のことであるともいう。当地域は江戸城の拡充整備や江戸の中心市街の発展と関連しながら,はじめ寺社地,武家地(旗本屋敷,大名屋敷)として開発が進み,その間隙を埋めるようにして町屋が発達した。1827年(文政10)の調査によれば,当地域内の町数27,総家数約2300軒(地主・家持50,地守・家守223,地借422,店借1586,明店38)であった。また幕末の資料によれば,当地域内に多い問屋商人の業種は舂米(つきごめ)屋,炭薪仲買,両替屋,人宿などである。江戸以前より集落のあった一ッ木村内に赤坂で最初に町屋のできた元赤坂町と,南伝馬町の伝馬役助成地として起立した表伝馬町,裏伝馬町,田町が赤坂門外に一ブロックを形成し,江戸城外郭の整備完了(1636)とも関連してそれぞれ寛永年間(1624-44)までに成立した起源の古い町屋である。ほかに1590年(天正18)伊賀者への給地となり,のちに町屋となった一ッ木町,同じく武家関係者への拝領町屋として1640-95年(寛永17-元禄8)にそれぞれ成立した新町5町,また浄土寺,願性院,専修寺,専福寺,氷川社などの寺社門前町屋があった。氷川社は1729年(享保14)に将軍吉宗の命により今井台の地に造営されたもので,門前には岡場所もできてにぎわった。武家地としては1827年の《武鑑》によれば,大名屋敷17(上屋敷8,中屋敷5,下屋敷4),500石以上の旗本屋敷56があった。そのうち1632年より幕末まで存在した紀州徳川家上屋敷は最も広大なものであった。
執筆者:松崎 欣一 明治維新当初,神田雉子町の名主斎藤月岑(げつしん)は,その日記に,溜池を舟で渡って豊川稲荷へ参詣する寂しさを記しているが,それは赤坂から青山へかけての武家屋敷の荒廃によるところが大きかった。〈塀は頽れ家は壊れて寂莫たる有様〉(《太陽》1898)は,女の一人歩きは昼間でも危険だといわれる状況であった。2代東京府知事大木喬任(たかとう)は,窮民授産と殖産興業の見地から旧武家地のうち約100万坪に桑と茶の栽培を奨励し,赤坂・青山の約16万坪がその筆頭であった。その結果,現在はネオンまたたく赤坂一ッ木町,台町付近に大きな桑園,茶園ができることになった。20世紀に入っても赤坂付近の荒涼たる様子は変わらず,国木田独歩は《夜の赤坂》(1902)の中で,〈道はまるで無人の境です。人つ子一人通つて居ません〉と述べている。赤坂付近の様相が一変するのは1910年代から20年代に入ってである。桑・茶園はしだいに高級住宅街となり,さびれていた旧町地も活気を取りもどし,ことに料亭の繁盛がきわだってきた。そこに出入りする赤坂芸妓は新橋・芳町芸妓と姸(けん)を競い,政財界の奥座敷として花柳界赤坂の名が世に喧伝されるようになった。
執筆者:小木 新造
美濃国不破郡と池田郡の境を流れる杭瀬川の西岸,金生山(赤坂山)のふもとにあった東山道の宿駅。現,岐阜県大垣市赤坂町。中世の文学作品に多く登場する。《平治物語》には源義朝の身がわりとなって佐渡式部大輔重成が赤坂の子安の森で討死したことがみえ,《とはずがたり》では赤坂宿に〈宿の主に若き遊女姉妹あり。琴・琵琶など弾きて〉とあって,隣接する青墓宿と同様に宿の長者が遊女であったことを推測させる。このほか,《覧富士記》《富士紀行》などの紀行文,謡曲《熊坂》《烏帽子折》や《蔭涼軒日録》《言継卿記》などの日記にも登場するが,宿の実態を示す史料は残っていない。1584年(天正12)3月,大垣城主池田恒興は〈赤坂寺内 西円寺〉あてに禁制を発している。この浄土真宗西円寺は,現在杭瀬川の東岸の草道島にある。
執筆者:稲葉 伸道 江戸時代ははじめ高須藩領,次いで幕府領,1633年(寛永10)以降大垣藩領。関ヶ原の戦に,大垣城の西軍に対して徳川家康が本陣を構えた岡山は,その勝利にちなんで御勝山と改められたといい,供養のための多数の墓石がある。中山道の宿場となり,1605年(慶長10)将軍旅宿の御茶屋屋敷が設けられた。東町に本陣・問屋場,子安町に脇本陣があり,はじめ馬淵家,次いで平田家,谷家,矢橋家が継いで本陣を務めた。杭瀬川に河岸があって舟運の便もあり,町並みが発達した。江戸時代,金生山から矢根石・蠟石・赤土・方解石・寒水石・花紋石などの印材・石細工材が採取されていたが,のち,大理石・石灰・セメントなどの採取・生産が行われている。輸入を含む大理石の加工工場が多く,赤坂大理石としてよく知られている。1901年町制,67年大垣市に合併,JR赤坂線が1919年開通して東海道本線の支線となっている。
執筆者:高牧 実
三河国(愛知県)宝飯郡の中世以来の宿場町。近世には三河国内の天領を支配する赤坂代官所の所在地でもある。東隣の御油宿とは16町の至近距離にあり,1601年(慶長6)の伝馬朱印状には御油宿と併記して合宿になっているが,その直後に双方とも独自で人馬継立てを行う。小規模な宿駅であるが飯盛女を多く抱え,大田南畝も《改元紀行》(1801成立)のなかで〈遊女多し。同じ宿なれど御油は鄙しく赤坂はよろし〉と赤坂宿の繁栄の様子を記している。1869年(明治2)の調査によれば人口1566人のうち,飯盛女とみられる〈召仕女〉が219人もおり,本陣3,脇本陣1のほかに旅籠屋41,茶屋22,商家31,馬持稼ぎ16,往還稼ぎ14等々の交通関係業者が在住し,典型的な宿場町の様相を呈している。旧東海道の宿駅のなかでは,江戸時代のおもかげを最もよく残している。宿駅の近くには,持統天皇や源頼朝の宿泊跡と伝えられる宮路山がある。1894年町制,1955年音羽町となり,2008年豊川市へ編入。
執筆者:渡辺 和敏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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