高坂館
たかさかだて
[現在地名]鶴岡市高坂
高坂集落を足元に一望できる丘陵上にある。「筆濃余理」は里俗の言として、もとは金峯街道畑中の天王社辺りにあったのだが、赤川乱流による水害のため移転したとする。応永年間(一三九四―一四二八)には高坂越前守文遵が館主である高坂館がすでにあり、南朝側であった武藤氏に属していたといわれる(黄金村史)。高坂氏については「義光記」はじめ諸書に記述される。「筆濃余理」は諸記の説を合せみたうえで、高坂城主高坂中務は庄内一五館の一人で武藤氏の家老であったが、幼少の一子を武藤義氏に殺されたのを恨み、最上氏と内通して義氏を殺害、義興を立てて武藤氏の家督を継がせた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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