高橋多一郎
たかはしたいちろう
(1814―1860)
幕末尊攘(そんじょう)派の水戸藩士。名は愛諸(ちかゆき)、字(あざな)は敬卿(けいきょう)、柚門(ゆうもん)と号す。藤田幽谷(ゆうこく)の思想を受けて改革派に属し、藩主徳川斉昭(なりあき)に抜擢(ばってき)されて奥右筆(おくゆうひつ)に進む。1844年(弘化1)斉昭失脚にあたり雪冤(せつえん)運動に参加して禁固に処せられたが、のち赦(ゆる)されて北郡郡奉行(こおりぶぎょう)などを勤める。水戸藩尊攘派の分裂後、激派として、井伊(いい)大老暗殺計画の実質的な指導者となる。事変後、幕府の追及急なるため、大坂天王寺で自刃した。同じく激派の金子孫四郎と並び称せられ、「金高」とよばれた。著書に『遠近橋(おちこちばし)』などがある。
[佐久間好雄]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
Sponserd by 
高橋多一郎 たかはし-たいちろう
1814-1860 江戸時代後期の武士。
文化11年生まれ。常陸(ひたち)水戸藩士。奥右筆頭取,小姓頭(がしら)などをつとめる。鹿児島藩士らと大老井伊直弼(なおすけ)襲撃,大坂挙兵を計画。挙行に先立って大坂にゆくが,桜田門外の変後,幕吏に発見され,万延元年3月23日子の庄左衛門とともに四天王寺で自殺した。47歳。名は愛諸。字(あざな)は敬卿。号は柚門,水哉堂,幽竹山窓。著作に「遠近橋(おちこちばし)」。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
Sponserd by 
世界大百科事典(旧版)内の高橋多一郎の言及
【桜田門外の変】より
…水戸藩内では,勅諚を返上すべきだとする鎮派と,これに反対する激派との間に,激しい政争がおこなわれたが,ついに鎮派の主張が通った。激派の水戸藩士金子孫二郎,高橋多一郎,関鉄之介らと,薩摩藩士[有村次左衛門]との間では,安政の大獄がはじまったころから,井伊の暗殺計画がねられていたが,水戸藩論が勅諚返上に傾くと,この計画は急速に具体化した。それによれば,水戸藩士50人は,井伊の襲撃と横浜の外国商館焼打ちとを実行し,同時に薩摩藩士3000人が京都の警衛にあたり,東西相応じて幕府の改造を断行するというものであった。…
※「高橋多一郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
Sponserd by 