高砂御厨(読み)たかさごのみくりや

日本歴史地名大系 「高砂御厨」の解説

高砂御厨
たかさごのみくりや

現高砂市高砂町・荒井あらい町付近と現加古川市尾上町養田おのえちようようた・同池田いけだ一帯に広がっていたと考えられる。「扶桑略記」延久二年(一〇七〇)二月一四日条に高砂御厨とみえ、当御厨からの供進物が魚類から精進物に替えられている。「西宮記」巻八の当代後院条にも「高砂御厨」がみえ、また津守国基は応徳三年(一〇八六)に高砂厨検校になっている(住吉社神主并一族系図)。正元元年(一二五九)四月、藤原公為と実清入道との間で高砂御厨をめぐり相論となり、双方から朝廷正文が提出されたが、しばらく様子をみることとなった(「経俊卿記」同月二二日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報