鷲宮城跡(読み)わしのみやじようあと

日本歴史地名大系 「鷲宮城跡」の解説

鷲宮城跡
わしのみやじようあと

[現在地名]鷲宮町鷲宮 粟原

鷲宮神社の西、青毛堀あおげぼり川を挟んだ埋没台地上にある。空堀の一部が残存し、廓郷地・中の内などの小名が残る。粟原あわばら城ともいう。当城主の大内氏は古河公方の御料所太田おおた庄の鎮守鷲宮神社の神主でもあり、代々公方家と密接な関係をもっていた。公方第五代義氏のときから大内氏は小田原北条氏と関係をもつようになり、義氏没後には小田原北条氏に属した。天正一三年(一五八五)と推定される八月二〇日の北条家朱印状(鷲宮神社文書)に「鷲宮へ集諸小荷駄(中略)陣中へ可相通者也」とあり、同二年の関宿せきやど(現千葉県関宿町)攻略以降、小田原北条氏が北関東に進出するに伴い鷲宮は同氏の兵站基地の役割をもたせられ、統制を受けたらしい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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