デジタル大辞泉
「関宿」の意味・読み・例文・類語
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せきやど【関宿】
- ( 利根川水運の関所と宿場が置かれたところからの称 ) 千葉県西北端、野田市の地名。利根川と江戸川の分流点にあり、江戸時代には久世氏六万石の城下町、利根川水運の河港として繁栄。農業が主。
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関宿
せきやど
利根川と江戸川に挟まれた、現関宿町関宿町一帯は、古くから水陸交通の結節点として重要視され、一五世紀に簗田氏によって築かれたという関宿城は古河公方方の戦略拠点の一となっていた。また同城下では早くから宿が発達し、一六世紀後半に同城を手に入れた小田原北条氏は宿の再編を行っている。関宿城は応永年中(一三九四―一四二八)以降に簗田満助によって築かれたとか(応仁武鑑)、長禄元年(一四五七)簗田成助による築城などといわれるが(関宿志)、詳細は不明。しかし「鎌倉大草紙」などによると同城は享徳三年(一四五四)足利成氏(鎌倉公方、のち古河公方)が関東管領上杉憲忠を謀殺したことから始まった享徳の乱のなかで、成氏が拠る下総古河城の出城的存在と位置付けられ、足利氏重臣簗田氏が入部、長禄三年以降は、五十子(現埼玉県本庄市)に滞陣する上杉方の江戸―武蔵岩付(岩槻)―河越(川越)―松山(現埼玉県吉見町)とを結ぶ戦線に対して、古河―栗橋(現茨城県五霞村)―当地とつなぐ成氏方の戦線の一翼を担っていた。永正三年(一五〇六)以降、古河公方足利政氏は子の高基と対立、同七年六月には高基が簗田高助の支援を得て関宿城に移座している(同月一二日「上杉可諄書状」新集古案)。なお同一五年、伊勢外宮の御師久保倉藤三が関東を廻国した時の記録には「しもうさの国在所関宿」の檀那一三名が記されているが、当地には石垣・賀島・松崎・巻島の各氏など殿を付けてよばれる階層の人たちがいたことがうかがえる(「永正十五年道者日記」神宮文庫)。
簗田氏は古河公方家の重臣としてのちに武蔵・下総進出を企てる小田原北条氏に対抗するが、天文二〇年(一五五一)一二月一一日には北条氏康が簗田晴助に宛て「関宿御難儀之時、不可見離事」という起請文(写、簗田文書)を送っている。同二三年一〇月、氏康との対立を表面化させた足利晴氏は古河城に立籠った。しかし北条氏のために退城を余儀なくされ、相模波多野(現神奈川県秦野市)に幽閉され、その後鎌倉葛西ヶ谷を経て関宿城に移っている。
関宿
せきじゆく
[現在地名]関町中町・木崎町・新所町
鈴鹿川の左岸にある近世東海道の宿場。下りは亀山宿(現亀山市)へ一里半、上りは坂下宿へ一里半六町を継送り、さらに宿東側から伊勢別街道が分れ楠原(現安芸郡芸濃町)へ一里、宿西側から大和街道(加太越奈良道)が分れ、加太へ一里半を継送る(東海道宿村大概帳)。
平安後期に古馬屋から当地付近に宿が移り、室町期には関所が地蔵院付近に設置され、しだいに民家も増した(九九五集)。川北家由緒覚(川北家蔵)によると「永禄年中宿建始ニ御座候処、往古者地名を関地蔵と唱」えるとあって、永禄年間(一五五八―七〇)に宿建てがあり、関地蔵とよばれている。駅中名細録(同家蔵)では宿建てを永禄六年とする。「三国地志」には天正一一年(一五八三)八月に関盛信が家臣岩間氏に命じて中町を建てたというから、この頃には宿場集落がほぼ整っていたと思われる。この町建てに尽力した五名は「関立初候時分より五ケ所之屋敷町をも取立候ニ付」と屋敷免が認められ、俗に五軒屋敷とよばれた(九九五集)。
関宿
せきしゆく
[現在地名]七ヶ宿町 関
七ヶ宿街道中ではわりあい平坦地に立地した宿場で、関町と称した。「関村安永風土記」によれば、上町は家数三八、下町は四七で、町並の長さはいずれも三町であった。滑津宿からは一里八町余・本荷五三文、南東の渡瀬宿へは二里・本荷八〇文。古くは当地に関所があり、天文年中(一五三二―五五)には早瀬の関、のち下の関ともよばれたという。天正一六年(一五八八)三月一二日の伊達政宗過所写(「伊達政宗卿伝記史料」所収)によれば、小関彦右衛門の「荷物十疋十駄并引馬五疋」を「一月之内上下十二度」永代勘過すべき旨下関通に命じており、この頃には諸関諸役所の機関が置かれていたことがわかる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
関宿
せきやど
千葉県北西部、東葛飾郡(ひがしかつしかぐん)にあった旧町名(関宿町(まち))。現在は野田市(のだし)の北西部を占める一地区。利根(とね)川と江戸川に挟まれた台地と低地からなる。1889年(明治22)町制施行。1955年(昭和30)木間ヶ瀬(きまがせ)、二川(ふたかわ)の2村と合併。2003年(平成15)野田市に編入。旧町域は、幹線交通路からははずれているが、利根川を挟んで東隣の茨城県坂東(ばんどう)市との間に下総利根大橋(しもうさとねおおはし)(有料道路)が架かる。地名は、河川交通の要所をなし、関所があって宿場でもあったことに由来し、現在も関宿の地名が残る。1457年(長禄1)に簗田(やなだ)成助が城を築き、江戸時代、松平(久松)康元(やすもと)4万石(関宿藩)が配されて城下町が整うとともに、利根川水運の拠点として問屋、船宿が建ち並び大いににぎわった。明治中期以後、利根運河が開かれて河川交通は衰え、農村集落へと変容した。地域の大半は微高地にあって、トマト、ナスなどの近郊野菜の生産が多く、ついで米作、酪農が行われている。1960年代以降、急激な都市化が進んだ。江戸川と利根川の水位調節用につくられた関宿閘門(こうもん)や、当地出身で第二次世界大戦終戦時の宰相鈴木貫太郎の記念館、将棋名人関根金次郎の墓、足利晴氏(あしかがはるうじ)、船橋随庵(ふなばしずいあん)らの墓がある宗英寺、復原天守閣をもつ県立関宿城博物館などがある。
[山村順次]
『奥原謹爾著『関宿志』(1973・関宿町教育委員会)』
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関宿[町]【せきやど】
千葉県北西端,東葛飾(ひがしかつしか)郡の旧町。利根川と江戸川の分流点を占める。中心市街は近世の城下町,利根川・江戸川の河港として発達,茨城県境町と境大橋,埼玉県幸手市と関宿大橋で結ばれている。米,野菜を産する。中部の東宝珠花(ひがしほうしゅばな)も江戸川の河港であった。2003年6月,野田市へ編入。29.82km2。3万1275人(2000)。
→関連項目板倉氏|関宿関
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関宿
せきやど
千葉県北西端,利根川,江戸川に挟まれる地区。旧町名。1889年町制。1955年二川村,木間ヶ瀬村と合体。2003年野田市に編入。中心地区は,江戸時代においては城下町として,また利根川,江戸川水運の重要河港としても繁栄。通船を検問する関所が置かれ,問屋,運送店,船宿が発達。1890年利根運河の完成,陸運の発達などでその機能は失われた。周辺では水稲のほか果樹,野菜の栽培と養豚,養鶏を導入した多角的な農業経営が普及。関宿大橋で埼玉県と,境大橋で茨城県とそれぞれ連絡する。
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