出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
利根川と江戸川に挟まれた、現関宿町関宿町一帯は、古くから水陸交通の結節点として重要視され、一五世紀に簗田氏によって築かれたという関宿城は古河公方方の戦略拠点の一となっていた。また同城下では早くから宿が発達し、一六世紀後半に同城を手に入れた小田原北条氏は宿の再編を行っている。関宿城は応永年中(一三九四―一四二八)以降に簗田満助によって築かれたとか(応仁武鑑)、長禄元年(一四五七)簗田成助による築城などといわれるが(関宿志)、詳細は不明。しかし「鎌倉大草紙」などによると同城は享徳三年(一四五四)足利成氏(鎌倉公方、のち古河公方)が関東管領上杉憲忠を謀殺したことから始まった享徳の乱のなかで、成氏が拠る下総
簗田氏は古河公方家の重臣としてのちに武蔵・下総進出を企てる小田原北条氏に対抗するが、天文二〇年(一五五一)一二月一一日には北条氏康が簗田晴助に宛て「関宿御難儀之時、不可見離事」という起請文(写、簗田文書)を送っている。同二三年一〇月、氏康との対立を表面化させた足利晴氏は古河城に立籠った。しかし北条氏のために退城を余儀なくされ、相模
鈴鹿川の左岸にある近世東海道の宿場。下りは亀山宿(現亀山市)へ一里半、上りは
平安後期に
七ヶ宿街道中ではわりあい平坦地に立地した宿場で、関町と称した。「関村安永風土記」によれば、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
千葉県北西部、東葛飾郡(ひがしかつしかぐん)にあった旧町名(関宿町(まち))。現在は野田市(のだし)の北西部を占める一地区。利根(とね)川と江戸川に挟まれた台地と低地からなる。1889年(明治22)町制施行。1955年(昭和30)木間ヶ瀬(きまがせ)、二川(ふたかわ)の2村と合併。2003年(平成15)野田市に編入。旧町域は、幹線交通路からははずれているが、利根川を挟んで東隣の茨城県坂東(ばんどう)市との間に下総利根大橋(しもうさとねおおはし)(有料道路)が架かる。地名は、河川交通の要所をなし、関所があって宿場でもあったことに由来し、現在も関宿の地名が残る。1457年(長禄1)に簗田(やなだ)成助が城を築き、江戸時代、松平(久松)康元(やすもと)4万石(関宿藩)が配されて城下町が整うとともに、利根川水運の拠点として問屋、船宿が建ち並び大いににぎわった。明治中期以後、利根運河が開かれて河川交通は衰え、農村集落へと変容した。地域の大半は微高地にあって、トマト、ナスなどの近郊野菜の生産が多く、ついで米作、酪農が行われている。1960年代以降、急激な都市化が進んだ。江戸川と利根川の水位調節用につくられた関宿閘門(こうもん)や、当地出身で第二次世界大戦終戦時の宰相鈴木貫太郎の記念館、将棋名人関根金次郎の墓、足利晴氏(あしかがはるうじ)、船橋随庵(ふなばしずいあん)らの墓がある宗英寺、復原天守閣をもつ県立関宿城博物館などがある。
[山村順次]
『奥原謹爾著『関宿志』(1973・関宿町教育委員会)』
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