鹿児島城下(読み)かごしまじようか

日本歴史地名大系 「鹿児島城下」の解説

鹿児島城下
かごしまじようか

近世鹿児島藩島津氏の城下町。東は鹿児島湾に面して桜島を一望し、西はしろ山およびそれに続く台地が連なる。北部を稲荷いなり木川)吉野よしの台地を流れ下ると、緩やかな流れとなるとともに大きく蛇行して多賀たが山麓、祇園ぎおんの浜で鹿児島湾に注ぎ、南西部には甲突こうつき川が緩やかに曲がりながら鹿児島湾に流れ出る。甲突川の南には田上たがみ(新川)、北には甲突川改修前の流れの残滓である清滝きよたき川、さらにその北には小河川のなめり(ナメガワとも、現在は暗渠)がある。稲荷川・甲突川・田上川の氾濫原が平野部をつくり、甲突川の流域にやや広い平地がある。城下町は稲荷川流域のかみ方限・かん町から甲突川流域のしも方限・下町および西田にしだ町に広がり、さらに人口増加に伴い田上川によりつくられた平野部にも城下士の屋敷ができた。周囲は鹿児島近在とよばれる村々が取囲んだ。

〔町の建設と構成〕

近世鹿児島城下の成立は原初的には島津貴久によるうち城の築造にあり、慶長七年(一六〇二)鹿児島初代藩主島津家久が鹿児島城(鶴丸城)へ居城を移すことにより本格化する。内城が築かれる前の清水しみず城時代に稲荷川右岸に人家が集まり、滑川以北の海岸近くにも人家が密集して城下町の景観を見せていたが、内城が築かれることによりそれが促進され、のちの上方限・上町の形がつくられた(鹿児島市史)。鹿児島城の築造を契機に武家屋敷と町屋敷が区画され、城下の原型ができる。鹿児島城の本丸と二の丸境から北側を上方限、南側を下方限と大別した(天保城下絵図)。さらに南に流路を付替えられた甲突川の右岸へも城下士の屋敷や諸座付の家ができて、左岸の武家地とは区別された士屋敷地ができた。甲突川右岸の士屋敷を「川外」と総称することもあるが、ここでは仮に西田方限とよぶことにする。上方限と下方限の主要な部分は馬場・小路・通により区切られる。武家七分・町三分と称され、広大な武家屋敷に比較して狭小な町人町は「上町六町やかたの北にあり、武家屋敷を中にして南を下町とゆふ十弐町あり、町より武家多し、此外山西(に)西田町あり、西国道中の入口なり」とあるように(薩摩風土記)、方限と同様に上町・下町・西田町の三町体制であった。天保城下絵図では武家屋敷と町屋敷は明確に区分されている。職種を示す町は納屋なや呉服ごふく木屋きやくるまの諸町。寺院・神社は上方限に多いほか、各地にも点在し、寺院に付随する門前は三町と異なる扱いを受けた。すなわち城下は、城を中心にして堀内・屋敷内に諸役所、それに続いて武家屋敷が上級士から下級士へと配置され、その外側(東側)に町が配置された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の鹿児島城下の言及

【鹿児島[市]】より

…市街地には昭和初めに発見された温泉がその後のボーリングによって数多く湧出し,旅館の内湯,共同浴場,ジャングル浴場などに利用されている。【服部 信彦】
[鹿児島城下]
 島津家19代家久は1602年(慶長7)鶴丸城を築いて,内城(現在は大竜小学校)から移った。城は天守のない屋形造の居館であった。…

※「鹿児島城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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