島津貴久(読み)シマヅタカヒサ

デジタル大辞泉 「島津貴久」の意味・読み・例文・類語

しまづ‐たかひさ【島津貴久】

[1514~1571]戦国時代武将薩摩さつまの人。宗家を継いで薩摩大隅おおすみ統一外国との外交にも力を尽くした。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「島津貴久」の意味・読み・例文・類語

しまづ‐たかひさ【島津貴久】

  1. 戦国時代の武将。忠良の子。日向の伊東氏としばしば交戦。のち薩摩・大隅二国を統一した。永正一一~元亀二年(一五一四‐七一

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「島津貴久」の意味・わかりやすい解説

島津貴久
しまづたかひさ
(1514―1571)

戦国時代の武将。伊作(いざく)島津家の嫡子として田布施(たぶせ)(鹿児島県南さつま市金峰(きんぽう)町地区)に生まれる。父は忠良(ただよし)、母は島津成久(しげひさ)の女(むすめ)。幼名虎寿丸(とらじゅまる)。通称三郎。官は左衛門尉(さえもんのじょう)、修理大夫(しゅりのだいぶ)、陸奥守(むつのかみ)、位は従(じゅ)五位下、入道伯囿斎(はくゆうさい)。1526年(大永6)守護(しゅご)島津勝久(かつひさ)の要請で養子となり伊作(同日置(ひおき)市吹上町地区)から鹿児島に入り、三州(薩摩(さつま)、大隅(おおすみ)、日向(ひゅうが))守護職(しゅごしき)を継ぐが、同族島津実久(さねひさ)の攻撃を受け田布施に帰り、以後数年父とともに実久の党と戦い、1545年(天文14)ごろ名実ともにその地位が確立する。これより先、1543年ポルトガル船が種子島(たねがしま)に鉄砲をもたらすやこれに深い関心を示し、1549年フランシスコ・ザビエルがキリスト教布教のため鹿児島に上陸すると、これを伊集院(いじゅういん)城(霧島市の清水城説もある)に迎えて便宜を与え、商船の来着を期待した。1550年伊集院より鹿児島に移り、居を内城(うちじょう)に定めた。爾後(じご)貴久は政治力と武力を用いて菱刈(ひしかり)氏などを服し、着々と三州統一の事業を進めた。1570年(元亀1)義久(よしひさ)に家督を譲り翌年没した。子の義久、義弘(よしひろ)、歳久(としひさ)は文武に優れており、よく父を助け、父の遺業を成就した。法名大中良等庵主南林寺殿。鹿児島市の松原神社は南林寺の旧地にあり、貴久を祀(まつ)る。

[五味克夫]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「島津貴久」の解説

島津貴久

没年:元亀2.6.23(1571.7.15)
生年:永正11(1514)
戦国時代の薩摩(鹿児島県)の大名。忠良の嫡子。修理大夫,陸奥守。守護家である奥州家が内乱により衰弱するなか,大永6(1526)年に守護島津勝久の養子となった。次いで父忠良と共に薩州家島津実久,勝久と対抗し,天文4(1535)年勝久を鹿児島から追放,さらに,同8年には実久を鹿児島郊外の紫原で破り,守護職継承の可能性を持つ有力庶家を排除した。同14年には伊集院において北郷忠相など庶家の認証を経て守護としての地位を確立,同19年伊集院から鹿児島に居城を移す。朝廷から修理大夫の官途を拝領し,大名としての地位を確立した。この間,同18年のイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸に当たり家臣の入信を認めたが,翌年には禁止する。その後も南蛮貿易により利を得ることは認めたものの,キリスト教を認知することはなかった。<参考文献>『鹿児島県史』

(福島金治)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「島津貴久」の解説

島津貴久 しまづ-たかひさ

1514-1571 戦国-織豊時代の武将。
永正(えいしょう)11年生まれ。島津忠良の子。島津氏15代。大永(たいえい)6年宗家島津勝久の養子となる。父忠良とともに勝久を追放し,薩州家の島津実久(さねひさ)を破り,天文(てんぶん)14年(1545)薩摩(さつま)・大隅(おおすみ)・日向(ひゅうが)守護となる。居城を伊集院から鹿児島にうつし,戦国大名としての基礎をきずいた。元亀(げんき)2年6月23日死去。58歳。通称は又三郎。号は伯囿。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

山川 日本史小辞典 改訂新版 「島津貴久」の解説

島津貴久
しまづたかひさ

1514.5.5~71.6.23

戦国期の薩摩国の武将。幼名虎寿丸。又三郎。三郎左衛門尉・修理大夫・陸奥守。法名伯囿(はくゆう)。島津氏庶流相州家忠良の嫡子。本宗家島津勝久の養子となり,1527年(大永7)4月,守護職を継承。しかし島津実久・勝久をはじめこれを承認しない勢力の圧力で守護職を奪われる。その後の抗争をへて,35年(天文4)に勝久を追放。39年の紫原合戦で実久を破り,天文末年頃には薩隅日3カ国の諸領主から,その地位を認められた。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「島津貴久」の意味・わかりやすい解説

島津貴久
しまづたかひさ

[生]永正11(1514).薩摩,田布施
[没]元亀2(1571).6.23. 鹿児島
戦国時代の武将。忠良 (日新斎) の子。大永6 (1526) 年,勝久の養子として宗家を継ぎ,薩摩,大隅,日向3国の守護となり,父忠良とともに領内を統一,戦国大名島津氏の基礎を築いた。天文 18 (49) 年 F.ザビエルが来航したとき,これと会い,のちインド総督に友好を求めている。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「島津貴久」の解説

島津貴久
しまづたかひさ

1514〜71
戦国時代の武将
同族争いをしずめて薩摩・大隅2国の統一を完成,島津氏繁栄の基礎を築く。島津家中興の祖。1549年にはザビエルにキリスト教布教を許可した。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の島津貴久の言及

【大隅国】より

…旧国名。隅州。現在の鹿児島県の一部。鹿児島湾奥の海岸部と内陸部,大隅半島部,半島西南海上の種子島・屋久島等の島嶼部の三つからなる。
【古代】
 西海道に属する中国(《延喜式》)。はじめ日向国の一部をなし,襲国(そのくに)ともよばれ,熊襲(くまそ)・隼人(はやと)の根拠地とみなされていた。割拠の豪族として大隅直(あたい)や曾君(そのきみ),加士伎県主(かしきあがたぬし),肝衝(きもつき)などの名があり,大隅隼人の首領大隅直の地盤と目される半島東南部肝属(きもつき)川一帯に高塚式古墳が少なくない。…

【薩摩国】より

…旧国名。薩州。鹿児島県西半部。
【古代】
 西海道に属する中国(《延喜式》)。大隅国と同じく日向国より分出し,合わせて南九州の三国,奥三州などと呼ばれた。《日本書紀》白雉4年(653)7月条に〈薩麻之曲竹島之間〉とみえ,《続日本紀》大宝2年(702)8月条に薩摩・多褹(たね)を征討し,戸を校(かんが)え吏を置く,10月条に唱更(はやひと)国司の言上で国内の要害に柵を建て兵を置くとあり,その説明に唱更国とは今の薩摩国府なりとあることから,このころ薩摩国は日向国より分出設置されたと思われる。…

【島津氏】より

…鎌倉時代から江戸時代まで南九州を領有した有力な大名。惟宗姓。のち藤原姓から源姓を名のるに至る。系図では初代忠久を源頼朝庶子,惟宗広言養子とするが,近衛家家司惟宗氏の出で京都から鎌倉に移り頼朝より厚遇をうけたものであろう。1185年(文治1)島津荘下司となり,翌年地頭に補任され,97年(建久8)には薩摩・大隅両国の家人奉行人(守護)に任命された。日向国についても同様であったらしい。1203年(建仁3)比企氏の乱で三国の守護・地頭職を失ったが,薩摩分のみはまもなく回復した。…

※「島津貴久」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android