中島 勝義(読み)ナカジマ カツヨシ

20世紀日本人名事典 「中島 勝義」の解説

中島 勝義
ナカジマ カツヨシ

明治・大正期のジャーナリスト 「攪民雑誌」主幹



生年
安政5年5月5日(1858年)

没年
昭和7(1932)年7月15日

出生地
西蝦夷地イシカリ(北海道石狩郡)

別名
字=子彬,号=玩球,狩水漁長,中州

経歴
明治9年「評論新聞」に投稿した「日本民権論」が筆禍となり、禁錮2ヶ月の刑を受ける。出獄後、「東京曙新聞編集長を経て大阪へ移り、10年2月より「攪民雑誌」の編集に参加、主幹を務めた。しかし、間もなく発行禁止を命じられたため、同年「興民雑誌」を創刊し、11年に廃刊するまでその中心人物として活躍。19年以後は「教育雑誌」(のち「学芸之世界」に改題)の編集・経営に当たり、20年に同誌を「知識之戦場」に合併させ、経営権を万代義勝に譲渡した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中島 勝義」の解説

中島勝義 なかじま-かつよし

1858-1932 明治時代のジャーナリスト。
安政5年5月5日生まれ。明治9年「評論新聞」に投稿した日本民権論の記事で禁獄2ヵ月となる。出獄後「東京曙新聞」編集長。10年大阪にうつり「攪眠(こうみん)新誌」主幹となるが発行禁止をうけ,「興民新誌」と名をかえる。19年以後,教育雑誌の発行にあたる。昭和7年7月15日死去。75歳。北海道出身。号は玩球,狩水漁長。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例