評論新聞(読み)ひょうろんしんぶん

改訂新版 世界大百科事典 「評論新聞」の意味・わかりやすい解説

評論新聞 (ひょうろんしんぶん)

西郷隆盛配下の旧薩摩藩士海老原穆ぼく)が設立した集思社前身は集思堂)の機関誌。1873年1月,日本で最初の評論雑誌として創刊されたが,反政府的論調のため翌月には発行禁止となる。75年3月に再刊(月5回,のち月10回刊)。終始,政府当局の内政外交の批判や自由民権運動の正当性を主張する立場を貫いたが,76年7月同じく政府攻撃の急進派雑誌《湖海新報》《草莽(そうもう)雑誌》とともに発禁処分を受ける。同年8月《中外評論》と改題して発行,これも同10月第28号で禁止されると,さらに同11月《文明新誌》と改題して果敢な言論闘争を続けたが,やはり翌77年6月弾圧を受け,第41号で発禁となる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「評論新聞」の意味・わかりやすい解説

評論新聞
ひょうろんしんぶん

1875年(明治8)3月、海老原穆(えびはらぼく)(1830―1901)主宰の集思社から発行された政府批判雑誌。月5~15回刊。征韓(せいかん)論を支持し、民権論を主張、長州閥に反対する論旨で「大臣ヲ斬殺(ざんさつ)セヨ」(2号)、「圧制政府顛覆(てんぷく)スベキノ論」(62号)、「伊藤参議ニ郵便ヲ以(もっ)テ御首(みしるし)ヲ懇望シタル話」(99号)など過激な批判を満載したので、記者禁獄、罰金相次ぎ、76年7月10日発行を禁止され、第109号で廃刊した。1873年1月、同名の雑誌が創刊されているが2号で廃刊している。

[春原昭彦]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「評論新聞」の意味・わかりやすい解説

評論新聞
ひょうろんしんぶん

自由民権運動期の初期に発行された新聞。創刊は 1875年2月で,西郷隆盛に私淑していた鹿児島県人海老原穆の集思社から発行された。明治政府は,同年6月に新聞紙条例讒謗律 (ざんぼうりつ) を公布して弾圧に乗出し,翌 76年発行禁止となった。

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世界大百科事典(旧版)内の評論新聞の言及

【社説】より

…イギリスでは1695年特許検閲法の廃止によって数多くの新聞が創刊された。ホイッグ,トーリーの二大政党の対立を背景にD.デフォーの《レビュー》(1704‐13),J.スウィフトが半年間論説を担当した《エグザミナー》(1710‐12),J.アディソンの《スペクテーター》(1711‐12)などが解説,論説を載せて評論新聞essay paperと呼ばれた。これらを社説の祖とみることができる。…

【海老原穆】より

…翌年愛知県官となったが73年下野。75年3月集思社を設立して《評論新聞》を創刊,小松原英太郎,末広鉄腸,宮崎八郎らを客員として征韓論と民権論を激越に唱えた。76年7月発禁処分にあうと《中外評論》と改題して発行,それがまた10月発禁処分にあうと《文明新誌》を発行し,政府の弾圧に抗した。…

※「評論新聞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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