公孫氏(読み)こうそんし(英語表記)Gong-sun-shi; Kung-sun-shih

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「公孫氏」の意味・わかりやすい解説

公孫氏
こうそんし
Gong-sun-shi; Kung-sun-shih

中国,後漢末から三国時代にかけての遼東豪族。後漢の支配権力が衰えると,遼東の公孫度は遼東地方を地盤として有力な地方政権をつくり,高句麗烏丸を討つまでになった。公孫度の孫の公孫淵の時代に呉の孫権と通じたが,結局両者の提携は成立しなかった。また公孫氏は度のとき以来魏の曹氏と親しんでいたが,淵のとき魏の明帝に服せず,みずから燕王と称し自立した。そのため魏と対立し,景初2 (238) 年魏軍のため公孫淵親子は斬られ,その勢力は消滅した。

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世界大百科事典(旧版)内の公孫氏の言及

【高句麗】より

…高句麗を構成した旧小国の王たちが,山上王を擁立して王位につけた。王の兄の発岐が一部の旧小国と結んで公孫氏に下ったので,山上王は王都を国内城に移し新国をたてた。このころ公孫氏は強大になり,楽浪郡を支配し,朝鮮南部や日本に勢力をのばすため,205年ごろ帯方郡を設置した。…

【楽浪郡】より

…しかし楽浪郡の消長の上からみて最も重大な変化は帯方郡の新設である。これより先,遼東の豪族,公孫氏は楽浪郡をその支配下に入れていたが,中国支配の弛緩に乗じて半島南部には韓・濊(わい)諸族の活動が旺盛となり,郡の南部を脅かすにいたったので,204年(建安9)公孫度は支配体制強化のため郡をほぼ二分して,南半を帯方郡と称した。やがて3世紀前半,曹魏(三国魏)は公孫淵を殺し,楽浪・帯方2郡は魏の支配下におかれ,ついで晋の治下におかれた。…

※「公孫氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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