朝鮮古代の国名。前1世紀後半~668年。別名は句麗,高麗,貉,穢貉,貊,狛などと書き,〈こうらい〉〈こま〉ともよぶ。高句麗の建国年次は,《三国史記》によれば前37年のこととし,このころから鴨緑江の支流佟佳江の流域を中心に,小国の連合ないしは統合が行われた。204年に鴨緑江中流の輯(集)安に都を移し,五族など有力な小国を基盤とした領主的貴族の連合政体の国家を形成した。427年に都を平壌に移し,宮廷貴族の連合政体である五部時代を迎えた。598年から始まる4回の対隋戦争と,645年から始まる6回の対唐戦で,高句麗の政治体制は軍事色の強い中央集権体制となった。700年に及ぶ高句麗の政治・社会史を表に示す時代区分にしたがって概説する。
高句麗の成立した地域は,古くから北方諸文化受容の窓口であった。朝鮮には旧石器時代人がいたが消滅し,その後南方からの移住民が居た形跡がある。前40世紀ごろから,蒙古人種,ツングース人種を主とし,東部シベリアの古アジア人などが,朝鮮地方に移住した。この時期の文化を代表する櫛目文土器は,北部ユーラシア大陸に広く分布していた。前15世紀ごろになると華北の仰韶(ぎようしよう)農耕文化が内モンゴルや中国東北地方南部をへて高句麗地方に伝えられた。この文化の受容によって,彩色土器の使用や畑作農耕が始まった。前7世紀になると,この地域は馬を使用したタガール青銅器文化,黒海北岸のスキタイ動物美術,オルドス(匈奴)文化などを受容し,特色ある青銅器文化を作った。前3世紀になると,朝鮮南部で稲作が始まり,中国の鉄器文化をもつ衛氏朝鮮が成立した。この鉄器文化は鮮卑族などツングース族を通じて受容された。前108年,漢の四郡の設置によって中国鉄器文化が直接この地域に導入され,国家形成が促進され,高句麗が成立することになった。
高句麗の名が初めてみえるのは,前82年以降の第2次玄菟(げんと)郡の主県名で,現在の中国遼寧省新賓県永陵付近とみられる。高句驪県は高句麗人の居住地で,前1世紀の高句麗人は佟佳江の流域を中心として,西は鴨緑江中流域,東は蘇子河流域に居住していたようである。前1世紀後半には,前漢の勢力が衰え,高句麗が建国したとみてよく,《三国史記》の建国年次の前37年はほぼ認められる。この時期の高句麗は,玄菟郡の主県にあげられるほど文化的・社会的に発展しており,朱蒙の建国神話からも,当時の高句麗が小国を統合する国家段階に達していたことが知られる。またこの神話には民族移動説,支配者層の移住説,夫余の勢力拡大説などがあるが,辰国の辰王のように異邦人を王者として擁立した時期の神話とみられる。中国の新の王莽(おうもう)が,12年に匈奴討伐のため高句麗に出兵を要求した。高句麗王騶がこれを拒否したため,王莽は騶を殺し,高句麗を攻めた。このことから,匈奴や高句麗だけでなく,中国周辺の諸民族の反乱が起こり,新の滅亡の原因となった。最初の王都とみられる桓仁(かんじん)地方には,典型的な高句麗山城である五女山城と,桓仁の東15kmの高力墓子村の高句麗墓群とが知られている。五女山城は,通化に通ずる陸路と渾河の水路を扼する交通の要衝にあり,三方が高い山や絶壁で囲われ,二つ以上の谷間をとりこみ,南方だけが緩斜面になっている地形(栲栳(こうろ)峰)に山城を作っている。この地方の高句麗墓は主として積石塚で,シベリアから伝わり,高句麗で発展した墓制である。これらの古墳から出土した土器類には中国土器の影響がみられる。高坏や奩(れん)の器形や,直線,波状曲線,方格などの文様をほどこした無釉の土器および黄釉をかけた陶器などがある。これらの土器はその後の高句麗で独特の発展をした。高句麗は49年に長駆中国の河北省北部を通り,山西省太原まで侵入し,118年以降には濊貊(わいばく),馬韓など周囲の諸族を糾合して,玄菟・遼東両郡,夫余と戦い,東方諸族の盟主的存在になった。132年には遼東郡から朝鮮の楽浪郡に通じる要衝の西安平県(遼寧省丹東市鳳城県)を攻撃し,赴任途上の帯方令を殺し,楽浪太守の妻子を捕らえた。1~2世紀の高句麗は,強大で後漢の遼東・玄菟2郡をしばしば侵略したが,反面49年の遼東太守祭彤(さいとう)や169年の玄菟太守耿臨(こうりん)など行政的・軍事的に優れた手腕をもつ太守には外臣として服属した。190年ごろ,遼東太守であった公孫度が,後漢王朝の混乱に乗じて自立し,高句麗や烏丸を服属させた。
王都が卒本(桓仁あるいは新賓)から国内(中国吉林省集安県)に移った年次はあきらかでない。《三国史記》では後3年のこととしているが,神話・伝承時代で,その年次には信憑性がうすい。従来,漠然と1世紀としてきたが,ここでは《三国志》にしたがって204年としたい。高句麗を構成した旧小国の王たちが,山上王を擁立して王位につけた。王の兄の発岐が一部の旧小国と結んで公孫氏に下ったので,山上王は王都を国内城に移し新国をたてた。このころ公孫氏は強大になり,楽浪郡を支配し,朝鮮南部や日本に勢力をのばすため,205年ごろ帯方郡を設置した。220年に後漢が滅び,中国の三国時代を迎えた。高句麗は遼東の公孫氏にならって,魏と呉に両属していたが,魏がこれを嫌い,238年に楽浪・帯方両郡を復興し,公孫氏を滅ぼした。244,245年の再度にわたって,幽州刺史毌丘倹(かんきゆうけん)が高句麗を攻撃し,王都丸都城をおとしいれた。第2回目の攻撃では,東川王を追って粛慎(現,ロシア領沿海州)まで出兵したが,王には五族の支援がなく,わずかな従者と落ち延びた。永嘉の乱(307-312)がおこり晋が衰えると,美川王はしばしば遼東郡に出兵し,311年西安平県をおとしいれて遼東郡と楽浪・帯方2郡との連絡路を断ち切ったので,313年晋は楽浪郡を放棄した。翌年高句麗は馬韓・辰韓などとともに帯方郡を滅ぼし,平壌方面に勢力をのばした。
319年に平州刺史東夷校尉崔毖(さいひ)が,333年に慕容仁の家臣冬寿,郭充らが,338年に趙の有力者宋晃,游泓(ゆうおう)らが,五胡十六国の戦乱で敗れ,高句麗に亡命した。これらの亡命者は高句麗に新しい文化をもたらし,国政をととのえ,軍備を拡張し,複雑な国際環境の中で,積極的に外交をすすめた。339,342年の再度にわたって慕容皝の前燕は高句麗を侵略し,故国原王は戦いに敗れ,単身東方に逃亡した。前燕は高句麗が大敗してもすぐ再起するのを恐れ,王母,王妃だけでなく,先王のしかばねまでもち帰った。その後高句麗は前燕に臣従したが,355年前燕は故国原王を冊封して,営州諸軍事・征東大将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王とした。この冊封は前燕が華北に進出するためのものであるが,中国王朝が外臣に内臣の称号を与えた最初のものであり,朝鮮諸国王が中国王朝より冊封を受ける始まりでもある。369年故国原王は百済を攻めたが失敗し,371年百済軍に平壌城を攻められ,王は戦死した。このあとをうけた小獣林王は新文化の導入をはかり,372年に秦(前秦)から順道が,374年に魏から阿道が仏教を伝えた。翌年寺院を建立し,ここに朝鮮仏教が始まった。また372年に大学を建て儒教教育を始め,翌年には法令を公布した。小獣林王代の儒仏受容・国政整備により,国力を充実した高句麗は,広開土王・長寿王の両代に飛躍的な領土拡大期を迎えた。かくして旧小国を中心とした貴族連合の五族時代から,中央集権化した貴族連合の五部時代へと発展した。
この時期の代表的な遺跡は壁画古墳である。高句麗固有の積石塚はこの時期に切石を段階状に積みあげ,その内部に石室を作るものになった。一方,この時期から石室の上を封土でおおった土塚が作られ,その内部に壁画や墨書をかくものもでてきた。初期の壁画古墳は,集安地方に多く,石室は主として単室で,装飾文で飾られた人物風俗画が多い。後期のものは,比較的平壌方面に多く,石室も龕(がん),側室のあるものや,2室のものもあらわれ,墓主の室内,邸内,野外の生活図や,仏教の飛天,道教的な怪獣などの人物風俗画が多く,ときには陰陽五行説による四神図もみられる。これらの壁画は,3世紀以降の華北,モンゴルの古墳壁画の影響である。平壌遷都以後,石室はふたたび単室となり,壁画は四神図を中心に日月星辰,蓮華文,唐草文などを配し,写実的な描写となった。
平壌遷都は高句麗の貴族連合体制を変質させた。王権は前代同様弱体であったが,王都に集中した貴族たちが中央集権化をすすめて五部(五族・五部)を形成し,強力な貴族が政権を握って大対盧(だいたいろ)になった。5世紀の高句麗は比較的順調に領土を拡大した。436年には遼東に進出して,遼河で北魏と国境を接し,475年には百済の王都漢城(京畿道広州)を攻め落として漢江流域を制圧した。しかし,南方の新羅は百済と連合して高句麗に対立し,北方の勿吉も辺地を侵略した。6世紀中葉になると,新羅が急速に領土を拡大し,551年には漢江上流域を奪い,553年には漢江下流域も支配した。さらに568年には新羅が日本海岸を北上し,咸鏡南道まで進出して高句麗の南境や東辺をおびやかした。高句麗は中国の南北両朝に朝貢し,484年には北魏の席次が南朝の斉に次ぐものとなり,中国諸王朝から与えられた称号も,東方諸国中最高位であった。しかし,南北朝の対立が激化すると,高句麗は両属が許されず,480年の遣南斉使や,520年の遣南梁使が北魏に捕らえられ,高句麗王は問責された。
日本では5世紀前半から高句麗の新文物をかなり受容しているが,正式な国交は570年より始まる。この年に高句麗の使者が北陸に漂着し,〈烏羽之表〉をもたらし,王辰爾がこれを解読したという。この説話の意味については諸説があるが,この表は大和王朝が外国より受けとった最初の国書である。この時期の高句麗と日本との関係は,文化交流が中心で,595年に高句麗から渡来して聖徳太子の師となった慧慈や,610年に顔料や紙墨を伝えた曇徴など,6世紀末以降の僧侶の活躍がとくに注目される。この時期には高句麗文化がもっとも充実し,多様化した。都城は居城と山城からなり,輯安には居城の国内城と尉那巌山城とがあり,平壌では居城の平壌城・安鶴宮と大城山城とがある。国内城は中国の邑城形式で,安鶴宮城は中国の都城形式であるが,尉那巌山城も大城山城も高句麗独特の栲栳峰形式の山城である。この居城と山城との組合せは,その後朝鮮全土の村落構造に取り入れられた。高句麗寺院の伽藍配置は,八角形の塔を中心に,東西北三方に金堂がある形式で,百済や日本にもこの形式が伝えられ,一塔一金堂の配置より古い形式である。瓦当は赤色系統で,その文様は蓮華文を中心に忍冬唐草文などがあり,文線が明瞭で,施文面を等間隔に区分することなどは漢代の様式,とくに楽浪瓦当の形式といえる。彫刻,工芸も非常に発展し,仏像彫刻では539年の金銅如来立像,563年および571年の金銅三尊仏など制作年次の明らかなものが多く,それらは北魏・北斉の仏像に類似しているが,童顔で静寂な高句麗仏の特徴もみられる。
581年に隋王朝が成立すると,平原王はただちに朝貢したが,南朝の陳にも朝貢を続けた。589年隋が中国を統一すると,高句麗は隋の侵入に備えた。598年嬰陽王は靺鞨(まつかつ)軍を率いて遼西郡に侵入し,隋の反撃を受け失敗に終わった。612年隋の煬帝(ようだい)は高句麗が突厥(とつくつ)と連合することを恐れ,新羅・百済両国からの高句麗討伐の要請にもこたえて200万の隋軍を派遣した。しかし,高句麗軍は遼東城(中国遼寧省遼陽付近)の籠城戦や乙支文徳(おつしぶんとく)の薩水(清川江)の戦などで隋軍を撃退した。その後も高句麗は再三隋軍の侵入を退けた。618年に,隋は国内の反乱などで滅亡し,唐が建国した。その後,朝鮮三国の対立はいっそう激化したので,高句麗では642年に泉蓋蘇文(せんがいそぶん)が栄留王たちを殺し,宝蔵王を擁立して臨戦体制を整えた。645年以後,高句麗は5度にわたる唐軍の遼東侵入をその都度撃退した。661年には唐・新羅連合軍が南方から攻撃し,王都平壌城に迫る勢いであったが,高句麗軍は善戦してこの連合軍を撃退した。665年に泉蓋蘇文が死去すると,彼の子供たちが対立し,長子男生は翌年唐に降服した。これを契機に高句麗の戦時体制が動揺した。その動揺に乗じて,唐・新羅連合軍が高句麗を攻め,668年9月王都平壌城を攻略し,宝蔵王を捕らえ,高句麗を滅ぼした。
滅亡時の高句麗は,遼河東岸流域以南,大同江流域以北を領有し,176城と69万7000戸の人口があったという。668年,唐は旧都平壌に安東都護府をおいたが,高句麗遺民の復興運動や対新羅戦争に敗れ,677年に安東都護府を新城(遼寧省撫順市)に移すとともに,その長官に宝蔵王を任命して遺民たちの鎮撫にあたらせたが,宝蔵王もまた高句麗復興を計ったので,四川省に流された。このような高句麗復興運動のなかで,698年大柞栄が震国(のちの渤海国)を建国した。
高句麗は隋・唐との対戦時代にも中国の新文物を受容していた。例えば,643年に泉蓋蘇文の発議で唐朝に道士の派遣などを要求し,儒教,仏教とともに道教の受容にもつとめた。一方,固有信仰も戦闘の激化にともない高句麗全土にひろまり,645年に対唐戦線の前進基地の遼東城にまで,高句麗王室の始祖朱蒙の霊が降臨したと伝えている。この時期の官制は貴族連合体制であったため,中央の制度は官僚的な組織が整備されず,地方も山城を中心とする軍政をとっていた。高句麗の城郭は住民の避難所から発展した独自の山城(さんじよう)で,新羅,百済などの山城の源流となった。この時期の山城は,隋・唐戦争に備え,王都を中心とした配置に改め,山城の規模や施設も大幅に拡充された。また,宮殿,寺院,神廟などには,礎石や瓦が使用され,その瓦当の文様などから中国北朝系文化の影響の強かったことが知られる。一方,庶民住宅にもオンドルが設置されるなど,独自の文化も飛躍的に発展した。
7世紀の日本との関係は,前半期には僧侶の渡来による文化交流が主で,中葉以降は外交関係が中心となる。6世紀末以降,高句麗王朝も百済にならい,大和王朝に儒学者や僧侶を派遣した。大和王朝では625年派遣の僧慧灌(えかん)を僧正に任命した。外交関係も630年に高麗大使宴子抜などが来朝し,正式な関係が開け,642年には泉蓋蘇文の政変の情報も伝えられるなど,しだいに緊密になった。645年来朝の使者を〈高麗神子奉遣之使〉といい,高句麗王を天皇と同様の神の子孫とみていた。656年以降日本との国交はいっそう頻繁となり,形式も整備された。高句麗滅亡後,新羅は亡命した高句麗遺民に8回も日本へ遣使させ,新羅の対日外交を円滑に推進した。
高句麗文化の特徴は,基層文化の一部に南方の農耕文化もあるが,その主流は北方狩猟系文化といえる。その貴族文化は中国北朝鮮系の文化を主とするが,壁画などにみられるように,北方狩猟系民族の文化をもあわせもっている。高句麗文化が北方狩猟系民族文化だけでなく農耕文化もあわせもっていたことは,高句麗文化が東アジア文化の接合点となるとともに,隋・唐両帝国の70年にわたる侵略戦争に耐える底力を備えることにもなった。
高句麗は漢学を三国中もっとも早く受容し,372年に国立の〈太学〉を設立し,私学の〈扃堂(けいどう)〉を各地に設立した。高句麗人は馬術や弓術だけでなく読書を好み,儒教の経典や《史記》《文選》などの歴史書・文学書を愛読した。また,歴史書編纂も盛んで,4世紀後半に《留記》100巻を,600年に《新集》5巻を編集した。414年建立の広開土王碑は,1800字に及ぶ優れた漢文で,その書風は古風な美しさをもつ漢代の隷書風で今日の書道家からも称賛されている。
高句麗の仏教は,372年に秦の順道が,仏像と経典を伝えたことから始まり,やがて寺院を建て,僧侶を迎え,国家的に仏教を保護した。高句麗の仏教はおもに大乗仏教の三論宗で,護国的性格が強かった。このように高句麗では新しい信仰形態・思想体系をとりいれただけでなく,僧侶は政治・外交上にも活躍した。また,建築,彫刻,絵画,工芸など多方面にわたる仏教文化が,高句麗に新たな文化活動を呼び起こした。そのなかで,もっともよく特徴を示しているのが,延嘉7年(539)銘の金銅如来立像である。
高句麗の庶民文化は多方面に特色ある発展をとげ,朝鮮式山城やオンドルなどを創造したが,その貴族文化を華やかに彩るものに古墳がある。高句麗の古墳には,ピラミッド形の積石塚と,内部に壁画の描かれている封土塚とがある。初期には主として積石塚が作られ,中国吉林省集安にある将軍塚が有名である。封土塚の壁画は,徳興里古墳や安岳3号墳など約50ヵ所でみられる。その内容は,初期には当時の生活風俗や家屋のようす,狩猟や戦争のようすが描かれ,後期には道教の影響による四神図が多くみられる。
高句麗人は歌舞を愛好し,管・弦・打楽器が数十種類もあった。なかでも有名なものは,王山岳が晋の七弦琴を改良して作った玄鶴琴である。王山岳はこの琴を使って,100余曲をつくったといわれている。玄鶴琴はのちに新羅に伝わり,新羅の音楽に大きな影響を与えた。
第1期の桓仁時代の古墳は,中国遼寧省桓仁地方から慈江道にかけて分布する積石塚である。この積石塚の源流は,シベリアのエニセイ川流域であるが,高句麗で飛躍的に発達した。積石塚は最初,河岸に河原石を方形に敷いてその上に木棺を安置し,それを河原石で覆うものであった。2~3世紀ごろから墓地が台地や山麓に移り,角ばった山石を用い,内部に石室を作る石室積石塚となった。この時期の土器類には,中国土器の影響がみられ,高句麗文化は北方,西方など広く世界各地の文化を吸収したことが知られる。しかし,一方では五女山城など高句麗独自の文化をも生みだした。
第2期の輯安時代の古墳には,将軍塚に代表されるような巨大な段築ピラミッド形の積石塚が盛行した。将軍塚は切石を用い,方形7段の段築墳で,一辺の長さが30m,高さが約14mで,玄室は第4段目にある。この時期になると,土墳がしだいにふえてくる。この土墳は,石積の玄室を封土で覆ったもので,玄室は半地下または地下に作られる。玄室は主室と前室の2室からできていることが多く,玄室の壁は割石または大きな板石を使っている。割石の場合は表面に漆喰を塗り,板石の場合は直接表面に壁画を描いている。
壁画は現在50余基の古墳から発見され,そのうち2基の古墳には紀年墨書があり,その築造年代がほぼ推定される。壁画古墳のもっとも古いものは安岳3号墳で,美川王陵とする説もあるが,357年に死去した冬寿の墓とする説が有力である。冬寿は前燕の内紛に敗れ,高句麗に亡命した人である。中国では漢代以来壁画古墳が盛行していたが,このころ高句麗に亡命した人たちによって伝えられたものとみられる。徳興里(とつこうり)古墳にも154文字の墓誌銘があり,408年に築造されたことが伝えられている。この古墳の被葬者にも,高句麗人説と中国人亡命者の両説がある。中国からの亡命者が壁画様式を伝えたにしても,高句麗人が受容したにしても,この両古墳の壁画や墨書は,いずれも優れたものであり,高句麗の日常生活や信仰・思想および政治・軍事の実態を具体的に伝えている。高句麗の壁画の内容は前にもふれたように,4~5世紀前半には,人物風俗図のみであるが,5世紀中葉以降人物風俗図に四神図が付加され,6世紀後半以降はほぼ四神図のみの壁画となる。
高句麗文化で注目されるものに,金石文・墨書の類がある。そのもっとも古いものは,さきの冬寿墓の墨書銘であり,ついで徳興里古墳墨書銘である。414年建立の広開土王碑文は,従来日本の朝鮮侵略を実証するものとして注目されてきたが,近年高句麗史の基本史料ないしは字形,書体,文体など高句麗文化の基本資料として重視されはじめた。そのほか長文の牟頭婁(むとうる)塚墓誌や中原高句麗碑をはじめ17にもおよぶ金石文があり,高句麗の思想・信仰・政治・社会の諸相がこれらの研究によって明らかにされよう。
高句麗の古墳は早くから盗掘され,副葬品がほとんど残っておらず,わずかに金銅の冠や耳輪など数点がみられるのみである。冠の透し彫には草花文や忍冬文があり,これらは北魏から受容し,新羅や日本に伝えたものとみられる。平壌市東方の清岩里廃寺の伽藍配置は,一塔三金堂様式で,百済の扶余軍守里寺跡や日本最古の飛鳥寺跡と同じ配置である。高句麗寺院では軒瓦のさきにつく瓦当が盛行し,その特色は赤色系統で蓮華文が多く,線が鋭く,陰陽が明瞭な点である。また,施文面を等区分にすることも高句麗瓦当の特色で,それは漢式瓦当とくに楽浪瓦当からの影響である。
高句麗では仏教が早く伝えられたが,現存する仏像彫刻は少なく,いずれも500年以後のものである。延嘉7年銘金銅如来立像は,6世紀初頭の北魏の仏像ときわめて類似している。571年とみられる辛卯年銘の金銅三尊仏は,かなり高句麗化しているが,6世紀後半の北斉の仏像を模したものである。このように高句麗仏像は北朝系の仏像が主流をなしている。
高句麗の僧侶が日本に渡来し,文化的な活動をするなかで,国家間の国交が開かれることになった。《日本書紀》に記載された初期の高句麗との関係は,主として戦勝伝説で,その史実性を確かめることはできない。
前述のように595年に高句麗の僧慧慈が聖徳太子に仏教を教え,602年に高句麗の僧隆が来朝した。610年には僧曇徴(どんちよう)が来て五経を教え,絵具,紙,墨,水車などを伝えた。また年代は不明であるが,高句麗僧の道顕が来日して,《日本世記》を著した。その他,寺院建築・仏像・彫刻・瓦当の文様など広範な仏教文化の導入に,高句麗僧侶がさかんに活躍した。また,625年ごろに来日した高句麗僧慧灌・道澄などが,三論宗を日本に伝え,教義の面でも大きな影響を与えた。
仏教文化以外にも,高句麗文化の影響は日本文化の随所にみられる。例えば,高松塚古墳や九州各地の装飾古墳の壁画には,高句麗の古墳壁画の影響や,高句麗から百済,加羅,新羅を経て渡来してきた新しい絵画形式が見られる。また,6世紀ごろから朝鮮の歌舞が受容され,7世紀後半には宮廷の雅楽として高麗(こま)(高句麗)楽が採用され,百済・新羅の楽と合奏された。702年以後,雅楽寮に高麗楽の楽師・楽生がおかれることになった。
高句麗と倭国との国交の有無は不明で,大和王朝との国交は570年ごろから始まる。しかし,7世紀前半までの日本との国交は文化外交に限定され,高句麗の対隋戦争についても,618年隋の滅亡後に日本に伝えられたにすぎなかった。高句麗の対日国交が盛んなのは,640年代と,668年の高句麗滅亡後682年までとである。前者は日本も朝鮮三国も政変の続く時期であり,滅亡後は新羅の対日外交の一環として,高句麗の調を納めるためのものであった。
執筆者:井上 秀雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
朝鮮古代の国名(前37ころ~668)。高麗、貊、狛などと書き、「こうらい」「こま」ともよぶ。高句麗地方は古くから北方・西方諸文化受容の窓口であった。紀元前7世紀以降、タガール、スキタイ、オルドスなどの諸文化を受容し、特色ある青銅器文化をつくった。前3世紀の衛氏朝鮮の成立、前108年の漢四郡(朝鮮四郡)の設置により、中国鉄器文化が直接この地域に導入された。前37年ごろから鴨緑江(おうりょくこう)の支流佟佳江(とうかこう)(渾江(こんこう))の流域を中心に、小国が連合して高句麗を建国した。
[井上秀雄]
前37年ごろの高句麗は、玄莵(げんと)郡の主県になるほど文化的、社会的に発展しており、小国統合の国家段階に達していた。後12年に高句麗王騶(すう)(東明王にあてる説もある)は王莽(おうもう)の出兵要求を拒否したため、王莽に殺されたが、これを契機に諸民族が反乱を起こし、王莽の新国は滅亡した。高句麗は49年に長駆中国の山西省太原まで進出し、118年以降では濊貊(わいばく)、馬韓(ばかん)などを糾合して、玄莵郡、遼東(りょうとう)郡、夫余(ふよ)と戦い、東方諸族の盟主的存在になった。132年には西安平県(中国遼寧(りょうねい)省丹東市)を攻撃し、赴任途上の帯方令を殺し、楽浪(らくろう)太守の妻子を捕らえた。1~2世紀の高句麗は強大で、後漢(ごかん)の遼東、玄莵2郡にしばしば進出した。190年ごろ、遼東太守公孫度(こうそんたく)が後漢王朝の混乱に乗じて自立し、高句麗や烏丸(うがん)を服属させた。
[井上秀雄]
204年に王都が国内城(中国吉林(きつりん)省集安市)に移った。この時代の高句麗は、貴族が旧小国など地方を支配していた。王権が弱く、貴族連合が政権を握っていたが、そのうち有力な5氏族が実権をもっていたので、この時代を五族時代という。中国の三国時代になると、高句麗は遼東の公孫氏に倣って、魏(ぎ)と呉(ご)に両属していたが、魏がこれを嫌い、238年に楽浪、帯方(たいほう)両郡を復興した。244、245両年に高句麗は魏に攻撃され、王都丸都(がんと)城を落とされた。晋(しん)(西晋)の永嘉(えいか)の乱(307~312)に乗じ、311年高句麗は西安平県を奪い、313年に楽浪郡を、翌年帯方郡を滅ぼし、平壌方面に勢力を伸ばした。五胡(ごこ)十六国の戦乱に敗れた中国の知識人が多数高句麗に亡命し、新しい文化をもたらした。339年、342年再度にわたって慕容皝(ぼようこう)の前燕(ぜんえん)が侵略したが、355年、前燕は政策を改めて、故国原王を営州諸軍事征東大将軍営州刺史(しし)楽浪公高句麗王に冊封した。この冊封は、中国王朝が異民族の外臣に内臣の称号を与えた最初である。371年百済(くだら)軍に平壌城を攻められ、故国原王は戦死した。この後を受けた小獣林王は新文物の導入を図り、372年に順道が、374年に阿道(あどう)が前秦(ぜんしん)から仏教を伝え、372年に大学を建て儒教教育を始め、翌年には法令を公布した。国力を充実した高句麗は、広開土王(好太王)、長寿王(ちょうじゅおう)両代の飛躍的な領土拡大期を迎えた。かくして旧小国の勢力を背景にした貴族連合の五族時代から、中央集権化した貴族連合の五部時代へと発展した。
[井上秀雄]
427年の平壌遷都は高句麗の貴族連合体制を変質させ、地方を基盤とした貴族が宮廷貴族となり、そのなかで強力な貴族が大対盧(だいたいろ)(第一等官職名。貴族会議の議長にあたり、政務の総轄者)になって政権を握った。この時代には王都を5区画に分け、その5部に貴族を分住させたので五部時代という。5世紀の高句麗は、比較的順調に領土を拡大した。475年には百済の王都漢城を攻め落として漢江流域を制圧した。6世紀中葉になると、新羅(しらぎ)が急速に領土を拡大し、漢江流域や日本海岸の高句麗の支配地を奪った。高句麗は初め中国の南北両朝と国交を結んでいたが、480年以後、北魏が南朝との国交を禁じた。高句麗独特の栲栳(こうろう)峰形式の山城や、居城と山城との組合せは、その後朝鮮全土の村落構造にまで取り入れられた。高句麗寺院の伽藍(がらん)配置や、北魏系といわれる高句麗の仏像形式は、百済や日本に影響を与えた。日本では5世紀前半から高句麗の新文物をかなり受容しているが、正式な国交は570年より始まる。この時期の日本との関係は文化交流が中心で、僧侶(そうりょ)の活躍がとくに注目される。
[井上秀雄]
581年に隋(ずい)が建国すると、平原王はただちに朝貢したが、一方では隋の侵略に備えた。612年隋が出兵すると、高句麗軍は遼東城(遼寧省遼陽市)の籠城(ろうじょう)戦や乙支文徳(いつしぶんとく)の薩水(さっすい)(清川江)の戦いなどで隋軍を撃退した。その後も高句麗は再三隋軍の侵略を退けた。その後、朝鮮三国の対立がいっそう激化したので、642年に泉蓋蘇文(せんがいそぶん)(淵蓋蘇文(えんがいそぶん))が栄留王たちを殺し、宝臧(蔵)王を擁立して臨戦態勢を整えた。645年以後、高句麗は唐軍の遼東侵略を三度撃退した。661年には新羅・唐連合軍が南方から攻撃し、王都平壌城に迫ったが、これを撃退した。665年に泉蓋蘇文が死去すると、彼の子供たちが対立し、長子男生は翌年唐に降服した。その動揺に乗じて、新羅・唐連合軍は、668年9月王都平壌城を攻略して、宝蔵王を捕らえ、高句麗を滅ぼした。滅亡後も高句麗遺民の復興運動が各地に起こり、698年には大柞栄(だいそえい)が震国(後の渤海(ぼっかい)国)を建国した。高句麗はこの時期にも道教など中国の新文物を受容していた。一方、固有信仰も戦闘の激化に伴い高句麗全土に広まり、民族精神を形成することになった。
[井上秀雄]
『李丙燾著、金思燁訳『韓国古代史』上下(1979・六興出版)』▽『井上秀雄著『古代朝鮮』(NHKブックス)』▽『井上秀雄著『変動期の東アジアと日本』(1983・日本書籍)』▽『金富軾著、井上秀雄訳注『三国史記2』(平凡社・東洋文庫)』
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?~668
朝鮮半島北部から中国東北部にかけて北朝鮮に扶余(ふよ)族が建てた国。紀元前後,佟佳江(とうかこう)流域を中心に部族連合国家を形成しはじめ,後漢末に遼東の公孫氏(こうそんし)の討伐を受けて,209年鴨緑江中流域に移り,丸都(がんと)城を築いた。ここで部族組織を再編成して立ち直り,中国の混乱期に乗じて313年,楽浪郡を陥れ,427年以降平壌(へいじょう)を都とした。最盛期は4世紀末から6世紀初めまでの広開土王(こうかいどおう),長寿王,文咨王(ぶんしおう)3代で,朝鮮半島の大半と遼東とを勢力圏に入れ,中国の南北両朝に通交して文物の輸入に努め,中国東方における最大強国であった。やがて突厥(とっけつ)と通じ,7世紀になって隋,唐の遠征をたびたび受け,よく抵抗したが,668年唐・新羅連合軍に滅ぼされた。都城のあった輯安(しゅうあん)(現,中国吉林省集安)一帯や平壌付近には古墳が多く残存し,ことにその壁画は高句麗の生活風俗を知る好資料である。
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朝鮮古代の三国の一つ(前47?~後668)。高麗・狛とも書き,「こま」ともよぶ。伝説では,天帝を父,河伯(かわのかみ)の女を母とする朱蒙(しゅもう)(鄒牟(すうむ))を建国の始祖とする。前2世紀末,漢の玄菟(げんと)郡の治下にあった高句麗族がしだいに成長,はじめ桓仁(かんじん)(中国遼寧省)を都とし,209年に丸都(がんと)城(中国吉林省集安)に遷都した。313年楽浪郡を攻め,400年にわたる中国の郡県支配を消滅させた。4世紀後半からは百済(くだら)と交戦し,広開土王は倭兵をも撃退し,さらに長寿王は427年平壌に遷都して南下策を進めた。だが百済・新羅(しらぎ)との3国抗争は隋・唐の介入を招き,泉蓋蘇文(せんがいそぶん)の政変もかさなって,668年唐・新羅軍に滅ぼされた。
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…この対外活動は遊牧騎馬民族間のものもあったが,また南方の農耕地帯にも多く行われ,この地帯に対する略奪および征服活動は,その後ながい間にわたって世界の歴史を激動させ,展開させることに重要な役割を果たした。 ところで江上波夫は,以上の遊牧騎馬民族のほかに,北東アジアの農主牧副民系または半農半猟民系の騎馬民族として,夫余,高句麗,靺鞨(まつかつ),渤海(ぼつかい),女真,満州などをあげている。そして夫余や高句麗と関係ある北東アジア系の騎馬民族が,まず南朝鮮を支配し,やがてそれが弁韓(任那)を基地として北九州に侵入し,さらには畿内に進出して大和朝廷を樹立し,日本における最初の統一国家を実現した。…
…《漢書》地理志によると呉は〈句呉(くご)〉と呼ばれており,〈くれ〉はその転語であろうか。なお,高句麗(こうくり)を〈句驪(くり)〉と記すこともあるので,呉(くれ)を高句麗とみる見方もある。しかし,《日本書紀》には呉(くれ)に渡るのに高句麗に道案内を頼んだり,高句麗と呉(くれ)の使者が同時に日本にきた記事があるので,呉(くれ)=高句麗説には問題が残る。…
…古代朝鮮で,313‐676年にわたり高句麗,百済,新羅の3国が鼎立・抗争した時代。この時代には三国が貴族連合体制の国家となったが,中国の植民地支配を脱したものの,なお強力な軍事介入のあった時代である。…
…朝鮮,高句麗の始祖王の諱(いみな)。在位,前37‐前19年(生没,在位とも《三国史記》による)。…
…とくに中国北辺にあって,北朝諸政権を圧倒しつづけたトルコ系の突厥(とつくつ)(東突厥)は,隋の成立とともに立場が逆転し,隋の王室の女の降嫁(和蕃公主)をめぐって進められる分断策,その一方で強まる軍事的圧力の両面作戦によって,ついに啓民(けいみん)可汗(?‐609)のもとで恭順の意を示すに至った。ここに隋は,東アジアから北アジアにまたがる盟主としての地位を確立するが,ただ朝鮮半島に拠る高句麗だけはその勢力下に入るのを拒みつづけ,その解決がつぎの煬帝の課題として残されることになった。
[煬帝の時代]
さて2代目煬帝は,父文帝の名君ぶりとは対照をなす暴君として広く知られている。…
…後者には現在シャーマンが口誦している巫歌神話と神話的昔話が含まれる。朝鮮神話全体の特徴は,(1)原初的形態を保持している,(2)巫俗や農耕儀礼など宗教儀礼との関係が密接である,(3)始祖神話の類が多く族譜意識が強い,(4)宇宙起源神話は神話記録者である儒学者の合理主義によって記録されなかったため,口伝のものが多い,(5)歴史的に高句麗・百済・新羅の三国鼎立が長く続いたため,神話が統一整序されず多様な伝承形態をとっている,などである。
[文献神話]
文献神話のおもなものは次のとおりである。…
※「高句麗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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