3世紀の中国で魏,呉,蜀(漢)の3国が鼎立していた時代をいう。統一帝国として400年の命脈を保った漢王朝の瓦解によって生まれた政局で,魏晋南北朝の分裂時代がここに始まる。政治上のみならず,社会・経済や思想・文化のうえでも画期的な時代であり,東アジア全体からいえば,非漢族の小国家が中国周辺において萌芽する時期である。
184年(光和7)の黄巾の乱とこれに続いて頻発する大衆的反乱は,全国に軍閥勢力を興起させる契機となった。まず外戚何進(?-189)は洛陽警備のために八校尉を置いたが,やがて自立して群雄となる袁紹,曹操ともにその一人である。何進はまた宦官勢力を一掃すべく山西方面の軍団長董卓(とうたく)に入朝を要請した。董卓は宦官たちを殺戮したのち朝権を握り,暴挙を行ったので,士大夫層は袁紹を盟主として董卓討滅の軍を起こした。呉の始祖である孫堅もこのとき袁紹の弟袁術(えんすい)の部下として活躍した。董卓は献帝を擁して長安に拠ったが部下の呂布らに殺され,関中地方も混乱に陥った。一方,華北東部には公孫瓚(幽州),袁紹(冀州)らが割拠し,黄河以南では曹操が徐州を中心に勢力を張って兗(えん)州の呂布と争った。袁術は南下して江北一帯を手中に収め,孫堅の子孫策は長江(揚子江)南岸に拠った。これら群雄間のはげしい交戦の結果,呂布は曹操に敗れ,公孫瓚は袁紹に滅ぼされた。一時帝号を称した袁術も曹操に敗北して歴史の舞台から去った。勝ち残った袁紹と曹操の決戦は,200年(建安5)の官渡の戦で後者の勝利に帰した。
曹操は献帝を擁して鄴(ぎよう)に移り,華北東部を制覇した。やがて長江中流域への進出を企てたが,劉備と孫権に阻止された。黄巾の乱討伐に功名を挙げた劉備は群雄の間を転々としたのち,荆州牧劉表に帰属した。曹操は劉表の死に乗じて南下したが,劉備は諸葛亮(孔明)の議によって孫権との同盟をはかった。孫権側でも対曹操主戦論が優勢となって,両者の連合軍は曹操軍を赤壁の戦に大敗させた(208)。曹操の江南への野心が阻まれたことは,諸葛亮のいわゆる天下三分の計が緒についたことを示している。ついで曹操は関中へ勢力を伸ばして華北全土を手中に収め,蜀地方をおびやかした。益州牧劉璋が劉備に援助を請うと,劉備は劉璋を攻めてこれを降し,益州(成都)を本拠とした。ここで孫権と劉備の間で長江中流域の要衝である荆州の帰属問題が表面化した。孫権は曹操と結び,部将呂蒙を遣わして荆州の守将関羽を襲い,この地を奪取させた。ここに三国の境域はほぼ画定された(219)。翌年曹操が病死し子の曹丕(そうひ)が漢を(うば)って魏帝国を建てると,三国分立の形勢は一層深まった。
4世紀にわたる漢王朝の権威は一朝にして覆えしうるものではなく,曹操,孫権,劉備はいずれも漢を尊ぶ姿勢を示して帝位への野心を現さなかった。しかし漢魏革命が遂行されると,漢室の末裔と称する劉備は献帝を弔い,みずから漢帝の位に即いた(221)。孫権は一時魏の冊封を受けたが,229年(呉の黄竜1)には帝位に即き,建業(南京)を首都とした。劉備は荆州奪回をはかったが果たさず病死,諸葛亮が後主劉禅を助け,しばしば魏と会戦してその心胆を寒からしめた。諸葛亮の死後,蜀は弱体化し,263年(蜀漢の景耀6,魏の景元4)魏軍に成都を攻略されて滅んだ。しかし魏自体も第2代明帝以後政権が動揺し,一方で司馬氏一族の実権が強まって,266年魏晋革命に結果した。280年西晋は呉を平定して全国を統一しここに三国鼎立の時代は最終的に幕を閉じた。
後漢末の群雄の軍事的基礎は,前漢・後漢を通じて成長してきた豪族勢力にあった。漢王朝の支配力が弱まってゆくのと比例して,各地の豪族は血縁者たる宗族内部の結束を固め,依付を求めてきた非血縁者たる賓客を抱えて,地方社会に対し指導力を発揮した。黄巾の乱が起こると,彼らは日常的なつながりにもとづいて武力集団を形成し(部曲),自家と地方社会の防衛につとめた。それらの豪族軍を糾合したのが,後漢末の群雄である。このように当時の政局の根底には,地方社会の構造変化が横たわっている。しかし漢帝国が分裂解体して複数の政治権力を生むためには,行政上の変化を必要とした。前漢の武帝以来郡県の監督のために置かれた州は,しだいに地方行政機関化して郡県を統轄するようになるが,黄巾の乱ののち州牧(刺史)に人格高潔のほまれ高い大官を任命して地方秩序の安定をはかろうとした。しかしこの措置は中央政府に対する州の比重を高める結果となり,群雄は州牧の地位を獲得あるいは自称することによって割拠のよりどころとした。州刺史が軍団をもつという魏晋南北朝特有の政治体制は,ここに源流をもつ。
これら州に割拠する群雄が互いに覇権を争ううちに,袁紹,袁術,劉璋のような漢王朝の名士は次々に滅び,曹操,孫権,劉備ら現実主義に立つ戦略家たちが勝ち残っていった。彼らは漢王朝の伝統的権威をのりこえて時代を前方に推進した。曹操はもっぱら才能のみで人を用い,品行は問うことがなかったが,呉,蜀もおおむねそうであった。このように三国時代は形骸化した漢の伝統を断ち切って新時代を招きよせる役割を果たした。3国はそれぞれ流民を無主の土地に引き入れて屯田経営を行ったが,これも自営農民を基本としてきた漢代的農業政策を捨てて,当時の社会の現実に立った方途であった。漢魏革命の直前に創始された九品官人法も,漢の朝廷に寄食してきた無能な官僚たちを一掃する目的のものであったといわれる。同郷人の評価にたえる人物を官に登用するこの制度の精神は,豪族層を漢の権威から引き離し,自立した社会指導者たらしめる効果があった。三国時代はこのように生き生きとした実質主義の時代であったが,一面過渡期としての性格を免れなかった。豪族勢力が漢の体制を離脱して自立度を増してゆくにつれ,軍閥との間に乖離を生じ,呉や蜀でも政権の統一性が弱まった。魏では司馬氏が豪族層の支持を得て着々と自己の地歩を固めたので,曹氏は孤立した結果,政権を奪われた。西晋王朝は豪族階級の政権として成立し,豪族階級は官職と結びついて官僚貴族に発展した。彼らの社会的地位の源泉は,郷里の名望家たるところにあったから,門閥主義が官界を支配した。三国時代の流動的な性格は失われ,社会は固定化に傾いた。
三国時代は文化のうえでも,疾風怒濤の時代であった。その出発点は,後漢時代,宦官の独裁に抗して戦った,いわゆる清流運動にあった。清流派の豪族士大夫は,彼ら自身こそ漢朝政治の担い手たるべきことを主張して華々しい言論戦を展開し,弾圧をむしろ名誉とする気風さえあった。運動そのものは再度にわたる党錮の禁によって消滅させられたが,この運動によって全国の士大夫層の連帯が生まれ,また士大夫とはいかなる存在かが追求された。これは士大夫層の社会的自立の度合いを高めた。このころから始まる人物評論の風潮は,士大夫層全体の自己評価の営みであって,のちの九品官人法につながる。党錮の禁ののち処士として民間に生きる逸民の徒が増加したことは,士大夫層の漢王朝からの精神的離反を意味した。それは必然的に思想上における価値の転換を伴った。これまで漢王朝を支えてきた儒家的な礼教主義は,腐朽した王朝の下では偽善にすぎない。このように意識した人々は,礼教主義の形式性に反抗して,その枠組みを超えたところに真実の世界を見ようとした。いわゆる方外思想がこれであり,人々は放達の生き方をよしとした。国家とそのイデオロギーの規格から自由となった今,知識人の眼前に開けてきたのは宇宙・自然のありのままのすがたであり,また個人のそなえる自由な心性であった。新しく開けた精神世界は,さまざまなジャンルの新文化を生んだ。
曹操父子(操・丕・植)がみずから詩人として代表する五言詩は,漢代の賦の宮廷詩的な荘重さを脱して,個人の感懐を真率に叙(の)べるものであった。曹魏政権のもとで文名をはせた,いわゆる建安七子(鄴下七子)もまた新文化の旗手たちにほかならない(建安文学)。建安時代(196-219)が新思潮の最初のピークであるとすれば,正始時代(240-248)は次の高揚期であった。この時代になると,漢代的思想からの離陸が本格化する。新しい時代精神を支えるものとして老荘思想が高い評価を受けたが,何晏,王弼(おうひつ)による《老子》の注釈がこれを代表する。この傾向は経学にも浸透して,経書を老荘風に解釈することが流行した。何晏と王弼はまた清談の大家で,その談論は〈正始の音〉として重んぜられた。嵆康(けいこう),阮籍(げんせき)ら竹林の七賢(七賢人)も,形式にとらわれない真実の生き方に身を委ねた(任真)当時の知識人の典型であった。知識人士大夫の活動は,魏の治下に限らず,呉,蜀でも営まれた。後漢王朝の瓦解によって,士大夫のなかには軍閥勢力をパトロンとして地方に移る者が多く,その土地に文化人のサロンが生まれた。荆州,益州などがそうであるが,呉もその例に洩れない。呉では長江下流域の経済開発によって江南出身の士大夫層が成長し,北方から移った士大夫とともに,六朝江南文化の原形を形づくった。西晋に仕えた陸機は,江南出身士大夫を代表する文人である。文学・思想の伝達手段である書もまた,漢代の隷書が行政上の目的に束縛されていたのを離脱して,独立した芸術上のジャンルとして成立しつつあり,曹魏に仕えた鍾繇(しようよう)に代表されるように,真・行・草の新書体が開拓されていった。
秩序の不安定な三国時代は,生活上容易な時代ではなかった。精神の自立をほこる知識人もつねに権力者による誅殺の脅威にさらされており,実際に殺された例も少なくない。民衆のレベルでは,飢饉と戦乱によってしばしば流亡をよぎなくされた。人間存在の不安定性から個人的なつながりを重んずる気風が生まれ,官界,軍隊,郷里社会などあらゆる集団の場にそうした人間関係が浸透した。そこにはどこか西欧封建制を想起せしめるものがある。士民の間に道教が普及してゆくのも,人々が個人の救済を求めたからであった。
禅譲という形式で漢をった魏,一時魏に臣属したがやがて帝国を称した呉,漢室の後裔と称する蜀の3国が同時に並立したため,どの国が正統かという正閏(せいじゆん)論が起こることになった。西晋の陳寿の《三国志》は魏を正統として書いたが,東晋の習鑿歯(しゆうさくし)の《漢晋春秋》は蜀を正統とする。《資治通鑑》は正閏論に深くかかわることを避け,叙述の便宜上,魏を中心として編年したが,朱熹(朱子)の《通鑑綱目》では蜀の正統を力説している。《三国志》にもとづいた講談ものや絵本・演劇が宋代から民間に流行し,それが明の羅貫中の《三国演義》にまとめられるが,劉備主従を善玉とし曹操を悪玉の典型としたのは,正閏論が民間に及んだ影響とも考えられる。なお中華人民共和国の史学界では曹操の再評価が試みられた。
→魏晋南北朝時代
執筆者:川勝 義雄+谷川 道雄
古代朝鮮で,313-676年にわたり高句麗,百済,新羅の3国が鼎立・抗争した時代。この時代には三国が貴族連合体制の国家となったが,中国の植民地支配を脱したものの,なお強力な軍事介入のあった時代である。3国は積極的に中国文化を導入し,儒教,仏教,道教をはじめ,これにともなう貴族文化や政治制度を,それぞれの国情に合わせて取捨選択した。また,住民がこの戦乱期に自衛するだけでなく,侵略軍を阻止するために山城(さんじよう)を創造するなど,民族独自の文化を作り出した時代でもあった。
(1)三国成立期(313-475) 高句麗はすでに前37年ごろに成立していたが,313-314年に,高句麗や韓族諸国が楽浪・帯方両郡を滅ぼしたことを契機に,韓族諸国の国家形成が大きく発展した。そのなかから,4世紀前半に馬韓の故地から伯済国を中心に百済が,同中葉に辰韓の故地に斯廬(しろ)国から発展した新羅が成立した。百済は371年に近肖古王が強国高句麗に大勝して,東アジアの国際社会に頭角をあらわした。新羅も470年ごろから百済と対立し,三国時代を迎えた。
(2)三国争乱期(476-568) 漢江・洛東江流域の諸小国の支配権をめぐって,3国が対立・抗争する時期である。三国時代は加羅諸国をはじめ多数の小国が残存していた。3国はこれらの小国を軍事力によって征服するだけでなく,小国の自治を認めながら協力関係を強化し,それぞれの連合体制に組み入れていった。この時期には中国王朝の軍事介入もなく,朝鮮内部の政治的・経済的発展に伴う内発的な統合過程がみられる。
(3)過渡期(569-617) 新羅が562年に加羅諸国を,568年までに漢江流域を支配すると,3国間での軍事抗争は一時小康状態となった。612年以降3度にわたる隋の高句麗侵略では,百済,新羅が隋に高句麗侵略をうながし,隋・唐の朝鮮侵略の口実を与えることになった。また,3国の対日外交もしだいに整備され,高句麗とは572年以降,新羅とは621年以降,それまでの口頭外交から国書による外交に変わった。
(4)東アジア争乱期(618-676) 618年に高句麗侵略の失敗が原因で隋が滅び,唐が建国した。これを契機に3国間の紛争が激化し,国内体制も中央集権化が進められた。640年代には3国とも政変が起こり,戦時体制を一段と強化して,唐の朝鮮侵略に備えた。新羅は漢江・洛東江両流域の大半を高句麗,百済に奪われたので,唐に依存して劣勢を挽回しようとした。百済も日本の軍事力を利用するなど,東アジア全体が朝鮮3国を軸にする争乱期を迎えた。645年から始まる唐の侵略を高句麗は3度退けたが,百済は660年に新羅・唐の同盟軍に滅ぼされ,高句麗も668年に滅ぼされて,三国時代は終わった。しかし,新羅は朝鮮半島をも支配しようとする唐の政策に対抗して,670年から7年間戦い,唐軍を退けて,統一新羅時代を迎えた。
執筆者:井上 秀雄
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中国で、3世紀に魏(ぎ)、呉(ご)、蜀(しょく)の三国が鼎立(ていりつ)した時期約40年間をいう。後漢(ごかん)の混乱期に各地に独立した勢力のなかで、曹操(そうそう)は後漢の献帝(けんてい)を擁し、河北の統一に成功し、208年南下を企てた。しかし赤壁(せきへき)の戦いで劉備(りゅうび)、孫権(そんけん)の連合軍に敗れて北に帰った。一方、赤壁の戦い後、劉備と孫権は荊州(けいしゅう)(湖北、湖南)および益州(四川(しせん))の領有をめぐって争い、結局、劉備が益州を、孫権が荊州を手にし、孫権はもとからの支配地であった揚州(ようしゅう)(江蘇(こうそ)、浙江(せっこう))とともに揚子江(ようすこう)以南を領土とし、三国鼎立の業がほとんどできあがった。220年11月、曹操の子曹丕(そうひ)は洛陽(らくよう)において献帝の譲を受けて魏を開き、これを聞いた劉備は翌年4月、成都に即位し漢(蜀漢)が成立した。孫権も別に年号をたてたが、229年建業(南京(ナンキン))にあって即位した。三国は初期にあっては魏・呉対蜀が、225年以後は魏対呉・蜀といった対立を軸にして動いていくが、234年の諸葛亮(しょかつりょう)の死後はさしたる戦いもなかった。263年、魏は蜀を滅ぼし、鼎立の時代は終わったが、265年、魏も晋(しん)の武帝に国を奪われた。呉が滅亡したのは280年のことである。陳寿(ちんじゅ)の『三国志』は三国時代の正史であり、『三国志演義』はそれをもとにした小説である。
三国時代を挟んで漢と晋・南北朝とを比較してみると、社会や経済、文化など種々の面においての差異をみることができる。このことが三国時代の特徴をよく示している。まず漢による統一支配が崩壊して、つねに複数の王朝の存在する分裂の時代が生じた。中央の官制についていえば、尚書省、中書省、門下省が形成され発展し、貴族の政治関与に役割を果たしたが、漢代の皇帝側近の官から分かれ出たものである。また官吏登用法では、魏成立期に九品官人法が施行されて、漢代の郷挙里選(きょうきょりせん)にかわり、さらにその運営は貴族制をつくりあげるものとなっていった。土地制度の面では、曹操がすでに本拠地の許(河南省許昌(きょしょう))において民屯を開き、無主の土地を人民に耕作させて小作形態をとったが、それが魏一代を通して行われ、晋代の占田・課田制へと展開していった。また兵制では、魏は兵戸制を行って、兵士を一般戸籍から分かち、その身分を世襲させた。呉では奉邑(ほうゆう)制をとって、諸将に軍隊を養う奉邑を与えている。次に文化面をみると、儒教の地位が相対的に衰え、老荘思想が重んぜられ、清談(せいだん)が行われた。五斗米道(ごとべいどう)や仏教もしだいに教線を広げ、文学その他の芸術も独自の価値を認められた。
[狩野直禎]
『森鹿三・狩野直禎他著『東洋の歴史4 分裂の時代』(1967・人物往来社)』▽『川勝義雄著『中国の歴史3 魏晋南北朝』(1974・講談社)』
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中国史の時期区分。220年,曹丕(そうひ)が後漢から帝位を譲られて魏(ぎ)を建国してから,280年魏をついだ晋(西晋)が呉(ご)を滅ぼして中国を統一するまでをさす。この間長期にわたって華北の魏,江南の呉,四川の蜀(しょく)の3国が鼎立して抗争したことによる命名。
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