王莽(おうもう)の新朝末期の農民反乱を平定した劉秀(りゅうしゅう)(光武帝)が再興した漢王朝(25~220)。都の洛陽が前漢の都長安の東にあることから東漢ともいう。57年,朝貢した倭の奴国(なこく)の大夫に光武帝が「漢委奴国王」の金印を下賜するなど,外夷の招撫につとめ,また91年に西域都護(とご)に任じられた班超(はんちょう)は西域を経略してシルクロードを開いた。だが中央では外戚と宦官(かんがん)が政権を握り,地方には外寇と農民反乱があいつぎ,やがて献帝が曹操(そうそう)の子の曹丕(そうひ)に禅譲して王朝は滅び,中国は魏・呉・蜀の3国に分裂した。
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→漢(五代)
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→五代十国
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…ただし漢は紀元8年に外戚の王莽(おうもう)によって帝位を奪われて一時中断したが,25年には一族の劉秀(光武帝)によって復活した。そのため王莽が簒奪する以前の漢を前漢といい,復活後の漢を後漢という。また前漢は都を長安におき,後漢は都を洛陽に定めたため,都の位置から前漢を西漢,後漢を東漢とよぶことがある。…
…ただし漢は紀元8年に外戚の王莽(おうもう)によって帝位を奪われて一時中断したが,25年には一族の劉秀(光武帝)によって復活した。そのため王莽が簒奪する以前の漢を前漢といい,復活後の漢を後漢という。また前漢は都を長安におき,後漢は都を洛陽に定めたため,都の位置から前漢を西漢,後漢を東漢とよぶことがある。…
…中国で,907年(天祐4)に唐が滅び,960年(建隆1)に宋が成立して979年(太平興国4)に統一を完了するまでの時期を,五代十国時代という。この間,華北では後梁,後唐,後晋,後漢,後周の5王朝が興亡したので五代といい,その他の地域に前蜀,後蜀,呉,南唐,呉越,閩(びん),荆南(南平),楚,南漢,北漢などが併存したので十国という。唐代後半の藩鎮割拠という分裂状態が唐の滅亡で極まったのがこの時代である。…
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