出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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中国、三国魏(ぎ)の2代皇帝(在位226~239)。名は曹叡(そうえい)。文帝曹丕(そうひ)の長子。蜀(しょく)の諸葛亮(しょかつりょう)(孔明(こうめい))が魏の南西境に侵攻すると、明帝は自ら長安に出陣し、一方では、張郃(ちょうこう)を街亭に遣わして蜀軍を大破、敗走させた。234年、山陽公(もと後漢(ごかん)の献帝)が崩ずると、翌年より魏独自の制度整備に尽力し、また洛陽(らくよう)宮を修築し、新たに太極(たいきょく)殿や昭陽殿を造営した。従来の太和暦にかえて、周暦に倣った12月を歳首(正月)とする景初暦を制定し、景初元年(237)3月から実施した。当時遼東(りょうとう)には、公孫淵(こうそんえん)が自立していたが、帝は司馬懿(しばい)にこれを討たせた。曹爽(そうそう)と司馬懿に後事を託し、35歳で没した。
[上田早苗]
中国、後漢(ごかん)第2代の皇帝(在位57~75)。姓名は劉荘(りゅうそう)。その治世が天下四方を照らすほど明らかであったので明帝と諡(おくりな)された。光武帝の第4子、母は陰皇后。儒学を好んだ明帝は光武帝期の制度をよく遵守し、自ら刑獄を処理するほど法令をつまびらかにすることに努めた。光武帝期に中断していた西域(せいいき)経営も積極的に行い、竇固(とうこ)や班超(はんちょう)に北匈奴(きょうど)を討たせた。また、明帝が金人の夢をみて西域から中国へ仏教を伝えたという説話も残されている。
[鶴間和幸]
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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[中国への伝来]
中国における最初の翻訳仏典とされる《四十二章経》の序は,その伝来の事情を次のように説く。一夜,後漢の明帝が,西方より殿庭に飛来するふしぎな金人の夢をみる。金人は,首の背後に円光を負うて全身より光明を放つ。…
※「明帝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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