明帝(読み)メイテイ(その他表記)Míng dì

デジタル大辞泉 「明帝」の意味・読み・例文・類語

めい‐てい【明帝】

[28~75]中国後漢の第2代皇帝在位57~75。姓名劉荘りゅうそう。父光武帝劉秀)のあとを受けて、儒教主義によって国内を治める一方で、外政では匈奴きょうどを征討し、班超らを西域経営に当たらせた。

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精選版 日本国語大辞典 「明帝」の意味・読み・例文・類語

めい‐てい【明帝】

  1. 中国後漢第二代の皇帝(在位五七‐七五)。姓名は劉荘。父光武帝の後を受けて儒教を政治思想とし教育・地方行政に努力。また、匈奴・羌(きょう)を討ち塞外に威をふるった。仏典を求め、白馬寺を建てたとの伝説もある。(二八‐七五

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改訂新版 世界大百科事典 「明帝」の意味・わかりやすい解説

明帝 (めいてい)
Míng dì
生没年:28-75

中国,後の2代皇帝劉荘。在位57-75。光武帝の第4子。明堂執政殿堂)・辟雍(へきよう)(天子の建てた大学)の完成とともに,大射礼・養老礼(三老五更の儀礼)を執行し,また,外戚子弟に五経を教える学校を建てるなど儒教の普及につとめた。対外的には,竇固(とうこ)や班超を派遣して北匈奴および車師など西域諸国を討たせ,亀茲クチャ)に西域都護をしばらく設置した。仏教は,明帝の治世のときに初めて中国に伝来し,洛陽西郊に白馬寺を建立したとされる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「明帝」の意味・わかりやすい解説

明帝[後漢]
めいてい[ごかん]
Ming-di; Ming-ti

[生]建武4(28).5.
[没]永平18(75).8.
中国,後漢第2代の皇帝 (在位 57~75) 。光武帝の第4子。姓名は劉荘。母は陰皇后。桓栄に師事し,『春秋』『尚書 (→書経 ) 』に通じた。即位後も儒者を高官に任命して,礼教主義に努め,貧民の救済,農業の振興,租賦,刑余者の減免に努めるなど内政の充実をはかった。また焼当羌 (きょう) を討ち,北匈奴を駆逐するなど外征にも意を用い,班超に西域諸国を帰順させ,西域都護戊己校尉を復活した。永平 10 (67) 年夢をみて仏教を求めさせたという伝説がある。

明帝[魏]
めいてい[ぎ]
Ming-di; Ming-ti

[生]建安10(205)?
[没]景初3(239).1.1.
中国,三国時代第2代の皇帝 (在位 226~239) 。姓名は曹叡 (そうえい) 。字は元仲。文帝の太子。黄初7 (226) 年即位。父の遺詔により曹真,曹休,司馬懿 (しばい) ,陳群が補佐した。彼は沈毅果断な人柄で,浮華の徒を退け,みずから政治を行なった。即位当初,呉と蜀が連合し魏を攻めたが,彼は司馬懿らの武将を派遣し,みずからも呉との戦いに出陣して撃退。しかし晩年には奢侈にふけり,斉王芳を養子にしたが,彼の死にあたり,芳を補佐する者をめぐり内紛があり,司馬氏専権の道を開いた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「明帝」の意味・わかりやすい解説

明帝(中国、三国魏)
めいてい
(205―239)

中国、三国魏(ぎ)の2代皇帝(在位226~239)。名は曹叡(そうえい)。文帝曹丕(そうひ)の長子。蜀(しょく)の諸葛亮(しょかつりょう)(孔明(こうめい))が魏の南西境に侵攻すると、明帝は自ら長安に出陣し、一方では、張郃(ちょうこう)を街亭に遣わして蜀軍を大破、敗走させた。234年、山陽公(もと後漢(ごかん)の献帝)が崩ずると、翌年より魏独自の制度整備に尽力し、また洛陽(らくよう)宮を修築し、新たに太極(たいきょく)殿や昭陽殿を造営した。従来の太和暦にかえて、周暦に倣った12月を歳首(正月)とする景初暦を制定し、景初元年(237)3月から実施した。当時遼東(りょうとう)には、公孫淵(こうそんえん)が自立していたが、帝は司馬懿(しばい)にこれを討たせた。曹爽(そうそう)と司馬懿に後事を託し、35歳で没した。

[上田早苗]


明帝(中国、後漢)
めいてい
(28―75)

中国、後漢(ごかん)第2代の皇帝(在位57~75)。姓名は劉荘(りゅうそう)。その治世が天下四方を照らすほど明らかであったので明帝と諡(おくりな)された。光武帝の第4子、母は陰皇后。儒学を好んだ明帝は光武帝期の制度をよく遵守し、自ら刑獄を処理するほど法令をつまびらかにすることに努めた。光武帝期に中断していた西域(せいいき)経営も積極的に行い、竇固(とうこ)や班超(はんちょう)に北匈奴(きょうど)を討たせた。また、明帝が金人の夢をみて西域から中国へ仏教を伝えたという説話も残されている。

[鶴間和幸]

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旺文社世界史事典 三訂版 「明帝」の解説

明帝
めいてい

28〜75
後漢 (ごかん) の第2代皇帝(在位57〜75)
光武帝の子。父の遺業を守って内政を整え,儒学を重んじ,礼教主義を確立した。外政においては竇固 (とうこ) に北匈奴を討たせ,班超に西域諸国を支配させて西域都護 (せいいきとご) を復活した。この時代に仏教が中国に伝来したという説がある。

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世界大百科事典(旧版)内の明帝の言及

【仏教】より


[中国への伝来]
 中国における最初の翻訳仏典とされる《四十二章経》の序は,その伝来の事情を次のように説く。一夜,後漢の明帝が,西方より殿庭に飛来するふしぎな金人の夢をみる。金人は,首の背後に円光を負うて全身より光明を放つ。…

※「明帝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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