精選版 日本国語大辞典 「公孫淵」の意味・読み・例文・類語 こうそん‐えん【公孫淵】 中国、三国魏の武将。康の子。明帝によって大司馬・楽浪公に封ぜられる。のち、自立して燕王と称したが、司馬懿(しばい)の軍に攻められ、殺された。二三八年没。 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例 Sponserd by
改訂新版 世界大百科事典 「公孫淵」の意味・わかりやすい解説 公孫淵 (こうそんえん)Gōng sūn Yuān生没年:?-238 中国,三国時代に遼東から北朝鮮一帯に独立した燕国の王。遼東出身の祖父公孫度が遼東太守として東は高句麗を,西は烏丸を討伐して勢威を高め,後漢末の混乱期に独立の基礎を固めたのち,その勢力は父の康,叔父の恭をへて淵に受けつがれた。淵は魏と呉の対立を利用して独立を維持し,237年には毌丘倹(かんきゆうけん)の率いる魏軍を破って燕王を称したが,翌年,司馬懿(しばい)によって滅ぼされた。執筆者:川勝 義雄 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「公孫淵」の意味・わかりやすい解説 公孫淵こうそんえんGong-sun Yuan; Kung-sun Yüan [生]?[没]景初2(238)中国,三国時代の燕王。公孫氏の内紛のなかで支配者の地位を獲得。魏に通じ,遼東太守に任じられた。当時,中国は三国に分れて争っていたが,公孫淵は南方の呉の孫権にも通じた。しかし,のちこれと絶交し,魏に親しんだ。やがて魏の命令にそむき,自立して燕王と称した。景初2 (238) 年,魏は公孫淵征討の軍を起し,権臣司馬懿 (しばい) がみずから兵を率いて遼東に行き,公孫淵父子を斬り,ここに公孫氏の政権は滅亡した。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by
日本大百科全書(ニッポニカ) 「公孫淵」の意味・わかりやすい解説 公孫淵こうそんえん →公孫氏政権 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例 Sponserd by