日本大百科全書(ニッポニカ) 「クヌード」の意味・わかりやすい解説
クヌード(大王)
くぬーど
Knud, den Store
(1000ころ―1035)
英語名カヌートCanute、クヌートCnutともいう。イングランド王(1世、在位1016~1035)、デンマーク王(2世、在位1018~1035)、ノルウェー王(在位1028~1035)。1014年イングランドで死去したデンマーク王スベン1世Sven Ⅰ(在位986~1014)の第2子。1016年イングランド王位(デーン朝)を、さらに兄のハラルド2世の死により1018年デンマーク王位を継承した。1026年ヘルゲ川の戦いで、ノルウェー王聖オーラフとスウェーデン王アヌンドの連合艦隊を破り、北欧における覇権を獲得した。1027年ローマで挙行されたドイツ国王(神聖ローマ皇帝)コンラート2世の皇帝戴冠(たいかん)式に出席。これを機にデンマークとドイツとの国境問題を解決した。1028年ノルウェーに上陸、聖オーラフを追放。さらに1030年、領土奪回を試みた聖オーラフのスティケルスタッドでの戦死により、クヌードのノルウェー支配は不動のものとなり、ここにイングランド、デンマーク、ノルウェーにまたがる「北海帝国」が成立した。デンマーク国内では軍制の改革を実施して「ティングリッド」とよばれる従士団を創設、また多数のイングランド人聖職者をデンマークに派遣、キリスト教の発展に努めたが、この政策はハンブルク・ブレーメン大司教との摩擦を引き起こした。さらにルンドやロスキレなどデンマーク各地にイングランドを模倣した貨幣鋳造所を設置した。1035年11月12日、シャフツベリで死去したが、在位中のデンマーク滞在期間は数年にすぎない。「北海帝国」は彼の死後まもなく崩壊した。
彼は、イングランドでは、エセルレッド2世Ethelred Ⅱ(968?―1016、在位978~1016)の未亡人エマEmma of Normandy(985?―1052)と結婚し、教会人にはその特権を認めるなどアングロ・サクソンの伝統を重んじた反面、征服者として有名なクヌード王法典に基づく集権化政策を強力に推進し、過酷な「デーンゲルト」の徴発も行った。
[牧野正憲 2022年10月20日]