デンマーク(読み)でんまーく(英語表記)Denmark 英語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「デンマーク」の意味・わかりやすい解説

デンマーク
でんまーく
Denmark 英語
Kongeriget Danmark デンマーク語

総論

ヨーロッパ北部のスカンジナビア三国の一国で、1972年以来マルグレーテ2世女王Margrethe Ⅱ(1940― 、在位1972~ )を元首とする王国。「デンマーク」は英語名で、デンマーク語ではダンマークDanmarkという。正称デンマーク王国Kongeriget Danmark。面積は自治領のフェロー諸島グリーンランドを除き4万3094平方キロメートル、人口543万5000(2006年推計)。首都はコペンハーゲン

 スカンジナビア半島はスカゲラク、カテガット、エアスン各海峡を挟んで対峙(たいじ)し、バルト海の入口を扼(やく)する。483個の島とユトランド(ユラン)半島からなり、国名の原意は「デーン人の境界地帯」に由来するという説が存在するように、ヨーロッパ大陸に対するその位置が北欧諸国中の最南の地として歴史上宿命的に大きな意味をもつ。北欧最初のキリスト教化、封建制領土の一部導入(スリースウィ公爵領)、北欧最初の宗教改革、ドイツとの民族抗争(19世紀)などといった歴史的事件も、また、ナチス・ドイツによる中立侵犯・占領、第二次世界大戦後のNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)加盟、EU(ヨーロッパ連合)への北欧最初の加盟国ということも、北欧の最南に位置する国という決定的要因が大きく影響した結果である。19世紀後半からは、イギリスを主市場とした酪農国として発展し、経済力をつけ、農産物加工、造船、機械工業を基盤とした近代的工業国になっている。また、1870年代以降、小国を自認した「国防ニヒリズム」の風潮が、外交的には中立政策に、内政では社会保障の充実に国家を向かわせ、繁栄した文化国家に至る道を開き、現代に至っている。

 国旗は赤地に白十字で、「ダネブロウ」とよばれ、1219年エストニア行軍中の国王バルデマー2世が率いる十字軍のもとにこの旗が天から降りてきたという伝説をもつ。6月15日は「バルデマーの日」として記念され、祭日となっている。エーリク4世(ポメラニアのエーリク。在位1397~1439)の治世下に初めて国旗として使用された。国歌はクリスティアン4世をたたえる「王国歌」と、バルト海の岸辺のブナの大木をめでて「愛らしき国土」と歌う「国民歌」の二つがある。

[村井誠人]

自然

地形

第四氷期に北欧を覆った氷床はデンマークの地形に大きな影響を与え、首都コペンハーゲンのあるシェラン島をはじめとするフュン、ローラン、ファルスターなどの島嶼(とうしょ)部とユトランド半島の東半分が氷床に覆われた。したがって、ユトランド半島の東岸部にエンド・モレーン(終堆石(しゅうたいせき))の標高100メートルほどの丘陵が存在し、島嶼部を含むその以東には、モレーン(氷堆石)による丘陵性の大地が大きくうねっている。デンマークの最高点もこれらのモレーンの中にあり、半島の中央部東寄りに位置するユディング・スコウホイYding Skovhøjの173メートルである。一方、半島の西部は氷床の融水流が形成した平坦(へいたん)な地形を呈し、北海に至っても遠浅の海岸が続き、沖合い10キロメートルの島々へは盛り土の道路が引かれ、引き潮時には連絡バスも走っている。

 デンマーク語で湾のことをフィヨーアfjord(フィヨルド)とよぶが、地理学の術語である氷食地形のフィヨルドをかならずしも意味しない。半島西岸のリングケービング・フィヨーアはラグーン(潟湖(せきこ))であり、東岸のバイレ・フィヨーアなどは氷床の底を流れた融水のつくりだした「トンネル谷」である。島嶼部の大きい島々はそれぞれ比較的水深の深い「トンネル谷」によって隔てられているが、ほとんどが橋で結ばれている。諸フィヨーアによる良港とモレーンの石灰質土壌による肥沃(ひよく)な農地は、北欧諸国随一のこの国の人口密度(1平方キロメートル当り126人。2006)を支えている。しかし、バルト海上にあるデンマーク最東端のボーンホルム島は、花崗(かこう)岩、片麻(へんま)岩を中心とした岩石島であり、デンマークでは例外的地形を呈する。

[村井誠人]

気候・植生

気候は西岸海洋性気候に属し、年降水量は400~800ミリメートル、西から東へ漸減する。最寒月は1、2月で平均気温0.0℃、最暖月は7月の15.7℃で、冬は日本の東北地方東岸、夏は北海道根室(ねむろ)付近に似る。植生は、ユトランドで大西洋沿岸植生区に属し、島嶼部で中部ヨーロッパのバルト海植生区に属し、基本的にはブナを中心とする広葉樹林帯である。しかし、ユトランドでは氷床の融水がもたらした平坦な砂泥地、低湿地が広がっているのに加え、永年の伐採によって荒廃し、ヒース原野となっていた。それらのほとんどは現在、土地改良がなされ、植林された針葉樹が森林を形成している。したがって、デンマークにある針葉樹の森林は自然林ではない。

[村井誠人]

地誌

デンマークの地誌的区分は、通例、島嶼(とうしょ)部(1万3318平方キロメートル)とユトランド(2万9776平方キロメートル)に分け、さらに島嶼部をフュン島、ローラン、ファルスター両島、シェラン島、ボーンホルム島と細分し、それぞれに近隣の小島群を内包させる。ユトランドでは、デンマーク第二の都市オーフスを擁するオーフス県のみがほぼ平均人口密度に達し、全般に人口密度の低い地域が広く分布している(最低はリングケービング県の1平方キロメートル当り56人、1996)。工業都市としては、オーフス、オールボーエスビアウなどが点在し、人口はおもに東部に偏り、西岸部北部は北西の卓越風によって砂丘地帯を形成している。

[村井誠人]

フュン島

フュン島はデンマーク第二(ユトランドのリムフィヨルド以北を島とみなせば第三)の大きさの島で中心地オーゼンセを擁し、最高点が131メートルのモレーン地形の島であり、オーゼンセを中心に七つの都市が海岸に点在して島を囲み、農業、工業、商業のバランスがとれている。ローラン、ファルスター両島は島嶼部の南に位置し、フェリーによってドイツのプッツガルデンと結ばれ、ヨーロッパ大陸とスカンジナビアを結ぶ鉄道の要路にあたる。

[村井誠人]

シェラン島

シェラン島はデンマーク最大の島であり、総人口の半数近くを擁し、首都コペンハーゲンがその東部に位置する。コペンハーゲンは100万都市(大コペンハーゲン)で、11世紀にはハウン(港)とよばれた寒村であったが、バルト海への関心の高まりにより1167~1171年城砦(じょうさい)が築かれ、これによってコペンハーゲンの原意「商人の港」へと発展する基礎が築かれた。1416年、王の居城となるに至って首都となり、19世紀後半の産業革命を経て、近代都市へと移行した。首都のほか、古都ロスキレ、ヘルシンゲアスラーイェルセ、ネストベズなどの都市が存在し、行政的には南東部のメーン島、首都対岸のアマア島をも含む。最高点が126メートルのモレーン地形であり、島の70%が農耕地、9%が牧草地、11%が森林である。

[村井誠人]

ボーンホルム島と南ユラン

ボーンホルム島は、地質・植生ともスウェーデン南部の延長上にあり、1658年スカンジナビア半島最南部のデンマーク固有の領土(スコーネなど)がスウェーデンに割譲された際、ともにスウェーデン領となったが、2年後ふたたびデンマーク領に復帰した。本土から遠隔の地にありながら帰属意識は高い。また、ユトランド南部の南ユラン(北部スリースウィ)は、1864~1920年ドイツ領(ドイツ語名北部シュレスウィヒ)であったが、1920年、住民投票に基づいて祖国に復帰した。ドイツ系を自認する少数民族が存在するが、現在はまったく国境不安の種とはならず、またドイツ内にもデンマーク復帰を希望するデンマーク系少数民族が存在するが、これも国境不安の材料とはなっていない。

[村井誠人]

歴史

デンマークの新石器時代は紀元前3000年ごろに始まる。前2000年ごろ単葬墳文化がインド・ヨーロッパ系の人々の侵入によってもたらされ、続いて前1500年ごろ青銅器文化、前400年ごろ鉄器文化が到来した。有史時代は紀元後800年ごろのビーキング(バイキング)時代から始まる。

[村井誠人]

ビーキング時代

最初の王たちは、民族地域の最南にダーネビアケという土塁を構築して、交易地ヘゼビュー(ハイタブ)の防衛と祖国防衛に力を注ぎ、811年フランク王国との間にアイザー川を国境とする条約を結んだ。イェリングの地に興ったゴーム老王Gorm den Gamle(950ころ没、在位?~940ころ)に始まる王家は、960年ごろハラール青歯王治下でデンマークをキリスト教化し、その子スベン双鬚(そうしゅ)王がイングランドを征服し、イングランド王を兼ねた(1014)。その次男クヌード(クヌード大王)が1016年イングランド王位につき、1018年兄ハラール2世の死後デンマーク王を兼ね、さらに1028年ノルウェー王に推戴(すいたい)され、「北海帝国」を築くに至る。しかし、同一人物が3王国の共通王になった以上の意味はほとんどない。

[村井誠人]

内乱の時代

1042~1047年にわたるノルウェー王マグヌス善王(マグヌス1世Magnus Ⅰ。1024―1047、ノルウェー王(在位1035~1047)、デンマーク王(在位1042~1047))の支配後、デンマークはクヌードの姉エストリドの子、スベン・エストリドセンが王位につき(スベン2世Svend Ⅱ。在位1047~1074)、彼のもとに現代につながるキリスト教の教区区分が成立した。その孫の代に王位をめぐる内戦状態に陥り、1157年バルデマー大王が唯一の王となり、内戦は終結した。彼はランスティング(国民集会)での同意を条件に、王位の世襲原則を確立した。乳兄弟アブサロンは1157年ロスキレ司教、1177年大司教となったが、コペンハーゲンの基礎となる「ハウン(港)」に城砦(じょうさい)を築き、バルト海の一大勢力であったスラブ系ベント人を平定(リューゲン島の征服)し、大王の王国統治に貢献した。

 その後、次の次の王バルデマー2世(在位1202~1241)がエストニアを攻略(1219~1227)、その行軍中、前述の「ダネブロウ」旗の天降(あまくだ)り伝説が成立する。彼の治下、バルト海のニシン漁が豊漁で、スコーネ地方とコペンハーゲンが繁栄、王権の強大化に役だった。バルデマー2世は1241年、絶対王制期以前の基本法ともいえるユラン(ユトランド)法を勅認した。王の没後、王権と貴族との対立が激化し、ドイツ的封建制の影響下、貴族らは所領の世襲化を望み、1115年以降公爵領となっていたスリースウィは、アーベル王(在位1250~1252)の家系から代々の公爵を輩出して、北欧唯一の世襲公領となった。貴族らは王権の弱体化を図り、王と貴族間の権力の分権化に成功、1282年「憲章」が記され、貴族らを中心に年1回の「ダーネホフ」という議会が開かれることになる。

[村井誠人]

カルマル連合と宗教改革

1332年から8年間の空位期間を経て、バルデマー4世(在位1340~1375)が国内の混乱を平定。ハンザ同盟とも和解し、政情は安定期に入った。その娘マルグレーテはノルウェー王ホーコン6世Håkon Ⅵ(1340―1380、ノルウェー王(在位1343~1380)、スウェーデン王(在位1362~1363))と結婚、その子オーラフ(オーラフ4世Olaf Ⅳ。1370―1387、デンマーク王(在位1375~1387)、ノルウェー王(在位1380~1387))はバルデマー4世の後を継いで王位につき(1375)、1380年ホーコン6世没後ノルウェー王を兼ねた。1387年オーラフが死ぬと、マルグレーテはデンマーク、ノルウェーの両国務院から「最高権威者」に推挙されて事実上の女王となる(1387~1397)。1389年、スウェーデン貴族の要請でドイツ人であるスウェーデン王アルブレクトを追放、3王国を合一した。1397年、マルグレーテは姉の娘の子、ポメラニアのエーリク(後の7世Erik Ⅶ。1382ころ―1459、デンマーク王(在位1396~1439)、ノルウェー王(エーリク3世、在位1389~1442)、スウェーデン王(エーリク13世、在位1396~1439))をカルマルに集まった貴族らに3王国の共通王と認めさせ、ここに「カルマル連合」が成立した。

 1448年オルデンブルク伯家のクリスティアンを国務院が王に推戴し、彼はオレンボー王朝の開祖となる(クリスティアン1世Christian Ⅰ。1426―1481、デンマーク王(在位1448~1481)、ノルウェー王(在位1450~1481)、スウェーデン王(在位1457~1471))。1460年ホルシュタイン伯家が断絶し、彼はその伯爵、スリースウィ公爵をも兼ね、これが19世紀の「シュレスウィヒ・ホルシュタイン主義」の主張となる根拠に使われることになる。1479年コペンハーゲン大学が設立された。フレゼリク1世Frederik Ⅰ(1471―1533、在位1523~1533、在位1523~1533)は、ハンス・タウセンHans Tausen(1494―1561)のもたらしたルター主義を保護し、デンマークの宗教改革が始まった。フレゼリク1世の没後、その子でルター派のクリスティアン3世(1503―1559、在位1534~1559)の王位継承が混乱のなかで1年間拒絶されたが、ユトランドの貴族らが彼を支持し、承認した。これに抗し、首都やマルメの市民がカトリックのクリスティアン2世(1481―1559、デンマーク・ノルウェー王(在位1513~1523)、スウェーデン王(在位1520~1523))を擁立して争ったが敗れ(伯爵戦争)、1536年首都が陥落して内乱は終結、1537年貴族会でルター教会が承認された。

[村井誠人]

絶対王制

クリスティアン4世(在位1588~1648)の治世は、重商主義政策とルネサンスの華やかな時代であり、またカルマル戦争、三十年戦争への参戦という国難の時代でもあった。続くフレゼリク3世(1609―1670、在位1648~1670)の治下、1658年「ロスキレの和議」によりスコーネを失ったが、翌年のスウェーデン軍の首都攻撃を王は市民とともに防御した。これを機に国務院を廃し、貴族の権利を制限して王権の世襲制を確立、絶対王制が開始される(1660)。1665年「王法」が成立、継承法などを規定した。18世紀には敬虔(けいけん)主義がデンマークを風靡(ふうび)し、1736年「堅信礼」が導入された。またペストの流行と穀物価格の下落のため、農村人口が減少し、農民を農地に緊縛する法律が施行される。

 18世紀後半、デンマークは重商主義を基調に、イギリス、フランス間の抗争に中立政策で臨んだ。クリスティアン7世(1749―1808、在位1766~1808)の重病は、ドイツ人医師ストルーエンセJohann Friedrich Struensee(1737―1772)が枢密(すうみつ)院最高顧問官となる急進的自由主義の時代を一時的にもたらしたが、宮廷クーデターによってストルーエンセ政権は転覆した。フレゼリク6世(在位1808~1839)は1784年から父王クリスティアン7世の摂政(せっしょう)となり、農民解放、自作農化、農地改革を遂行した。ナポレオン戦争では危機に直面し、首都が二度にわたってイギリスの攻撃にあい(1801、1807)、不本意ながらフランスの同盟国として敗戦を迎えた。1814年キール条約を結び、ノルウェーとの同君連合に終止符を打つ。1834年、4地方議会が開設され、スリースウィでは議場を中心にデンマーク語・ドイツ語闘争が展開され、1840年代に入ってスリースウィは民族抗争の場となった。

[村井誠人]

近代産業国家への道

1848年コペンハーゲンに無血革命が起き、絶対王制が崩壊すると、キールでもドイツ志向のシュレスウィヒ・ホルシュタイン主義者が臨時政府樹立の宣言をし、スリースウィ戦争に突入した。デンマークの意図は、自由主義憲法のもと民族地域スリースウィ公爵領と王領とを合併することであり、ドイツ人のそれはスリースウィとホルシュタインとを合併させ、ドイツの一州とすることであった。2回の戦争を経てデンマークは敗北し(1864)、スリースウィを失い、史上最小の版図になる。

 1849年に自由憲法を制定したフレゼリク7世(1808―1863、在位1848~1863)が1863年11月に没し、オレンボー家が断絶、クリスティアン9世(1818―1906、在位1863~1906)が即位し、グリュックスボー王朝が始まった。対独戦争後、共同組合活動などを通じ穀物農業から酪農への転換に成功し、さらに産業革命による首都の都市化により、デンマークは近代産業国家への道を歩む。都市化により労働者階級が政治勢力となり、1872年「社会民主党」が成立。左翼党が下院の過半数を占めていたことを背景に、議会主義の要求がつねに存在したため、1901年、体制に変化が生じ、左翼党内閣が成立した。その間、社会立法により福祉国家への基礎が築かれ、「国防ニヒリズム」に基づく平和主義が内外政を規定していくことになる。

 1915年憲法改正により、上・下院の差別撤廃、女性参政権、比例代表制が制定された。第一次世界大戦でのドイツ敗北後、1920年北部スリースウィが住民投票により祖国復帰し、現在の国家の版図が成立した。第二次世界大戦中ドイツに占領されたが、国境線は維持された。1953年の憲法改正により、上院の廃止、女性王位継承権を認め、したがって1972年女王マルグレーテ2世が誕生した。

[村井誠人]

政治

王権と三権

「1953年6月5日憲法」は、立憲君主国デンマークの王位をグリュックスボー家内の継承権に限定、男子への優先権を認めながらも長子(男女とも)に王位継承権を認めた。現女王マルグレーテ2世は、前王フレゼリク9世(1899―1972、在位1947~1972)の王女三姉妹の長女であり、この憲法はグリュックスボー王朝の存続と上院の廃止を目的として従来の憲法が修正されたものである。立法権は王と国会にあり、また王は閣僚会議を主催し、行政権は王と内閣の協議に基づくことが規定され、司法権は裁判所に属する。王は首相以下閣僚を任命し、法令の発布は王および1人以上の閣僚の署名を要する。伝統的に王の権限は法的に大きいが、1920年の「復活祭危機」を最後に事実上の実権の行使はない。

[村井誠人]

国会および政党

国会は一院制であり、定員は179議席、そのうち自治領のフェロー諸島、グリーンランドに各2議席をあて、残り175議席は17の選挙区から比例代表制で選出される。選挙権・被選挙権は18歳以上の男女に与えられ、議員の任期は4年で、議院内閣制は憲法が規定している。国民は行政に対し「国会オンブズマン」に不服を申し立てる道が開かれている。

 1901年議院内閣制の確立後、左翼党から急進左翼党が分離し(1905)、下院(現国会)では給与所得者を支持基盤とする社会民主党、農民層の左翼党、自営業・産業資本家の保守国民党に加えて四大政党体制が確立した。1960年代までの得票率は、社会民主党40%、左翼党20%、保守国民党20%、急進左翼党10%で、議席獲得には最低2%の得票を必要とする条項が存在する。議院内閣を形成する二大勢力は、社会主義勢力と左翼党、保守国民党のブルジョア勢力であった。1960年代なかばに社会主義人民党が頭角を現し、五大政党時代へ突入、その後デンマーク経済に陰りがさし、1973年社会主義人民党、急進左翼党が大幅に後退し、新興の進歩党が高税による福祉制度を批判して一挙に第二党へと進出、議席を有する政党数は2桁(けた)へと移行する多党化時代に至る。1980年代前半は社会民主党を中心とする政権か、「四つ葉のクローバー」とよばれるブルジョア勢力の四党連立政権が行政を担い、いずれも平和主義を基調としたうえで北大西洋条約機構(NATO)内に残留、ヨーロッパ共同体(EC)加盟、北欧諸国間協力が基本的政策であった。

 1982年に成立した保守国民党を中心とするブルジョア政権は、失業率の減少といった経済状況の好転にも支えられて11年に及ぶ記録的な長期政権となる。その間、1992年5月のマーストリヒト条約の批准をめぐる国民投票では、社会主義人民党などの尽力によって反対票が過半数を得(50.7%)、ヨーロッパ各国に「デンマーク・ショック」を与えてEU(ヨーロッパ連合)への早急な動きに警鐘を鳴らした。同年12月のヨーロッパ理事会の「エジンバラ合意」によって、単一通貨導入や共通防衛政策などに対するデンマークへの適用除外が認められた。それを確認したのち、この長期にわたる政権は1988~1989年の法相によるタミル人難民入国不法拒否に対する引責退陣を行い(1993年1月)、そこで11年ぶりに社会民主党を中心とする連立政権が誕生した。同年5月に新たなマーストリヒト条約批准の国民投票が行われ、ようやく56.8%の賛成をもって批准されたのである。デンマークは、EU内で、今後どこまで「エジンバラ合意」による特例にこだわり続けるのか注目される。

 1998年3月の議会選挙では、接戦を制して社会民主党を中心とした中道左派が政権を維持した。しかし、2001年11月に行われた選挙で中道左派は敗北、1993年から8年間続いた中道左派政権は幕を降ろした。この選挙では、移民問題が争点となり、移民の規制を公約した自由党などの中道右派が躍進、その結果、自由党は保守党と連立を組み、中道右派政権を発足させた。そして、移民に対する規制強化と対外援助の削減などが実施された。国内的には支持された移民対策であるが、EU各国では厳しすぎる移民対策に批判の声もおきた。2005年2月、2007年11月に行われた議会選挙においても連続して自由党、保守党連立の与党が勝利、政権を継続させている。

[村井誠人]

外交・防衛

デンマークは第二次世界大戦後、スウェーデン、ノルウェーとともに北欧防衛同盟の締結に向け外交折衝に入っていたが、1949年交渉は決裂し、同年デンマークはNATOに加盟、NATO軍の北欧方面軍にその三軍は組み込まれている。1973年以来、兵役義務年限は4~12か月と多様であり、兵力は陸軍1万9202人、海軍6008人、空軍7816人、またホームガード(市民防衛隊)は約6万9000人である(1994)。外交の基本路線は、国連の原加盟国として世界平和維持機関である国連活動に協力することで、過去に国連平和維持軍としてコンゴ(1960)やキプロス(1964)、ボスニア・ヘルツェゴビナ(1994)へ派兵している。また北欧諸国との協力も基本政策であり、軍事、経済を除く実質的協力・共同機関が確実に機能し、1952年北欧各国議員からなる「北欧議会」が成立、その決議は北欧各国の政府の行動に影響を及ぼす。1972年国会はECへの加盟を141議員の署名による決議書によって承認、国民投票によっても有権者の56.7%の賛成票を得て承認され、1973年1月ECに加盟した。そしてECがEUに移行する際、デンマークではEUの内容を規定したマーストリヒト条約の批准を1992年の国民投票で否決したが、その修正を待って(エジンバラ合意)、1993年にふたたび国民投票を行い、承認に至った。その後、2000年9月にユーロ(EUの共通通貨)への参加を問う国民投票が行われたが、否決され、ユーロの導入は見送られた。さらに、2005年に行われる予定であったヨーロッパ憲法条約の批准に関する国民投票は延期され、結局、2008年4月にその改正条約であるリスボン条約が国会において批准された。

 なお、2003年のイラク戦争について政府はアメリカ支持を表明、戦後、イラクに治安部隊を派遣している(2007年撤退)。また、2005年9月に主要紙『ユランズ・ポステン』に掲載された預言者ムハンマドの風刺画に対し、イスラム諸国から激しい抗議を受けた。

 デンマークの地方自治体は、首都コペンハーゲン市(フレズレクスベア区を含む)のほか14県275地区に分割され、また54警察管区に分割されている。

[村井誠人]

経済・産業

デンマーク経済の発展

スリースウィ戦争の敗北(1864)により、デンマーク王の所領でドイツ人の居住するホルシュタインとラウエンブルクの両公爵領と、住民の過半数がデンマーク人であったスリースウィ公爵領とをデンマークは失い、それらの地域がハンブルクの市場圏にあったため、デンマークのドイツを主たる貿易相手国とする経済的基盤の時代は終了した。1870年代にデンマークは産業革命の時代に突入、食糧品を中心とする貿易の主たる相手国もドイツからイギリスへと転じた。1872年、首都圏の工業化が「外に失いしものを内にて取り戻さん」と詩人ホルストHans Peter Holst(1811―1893)によって叫ばれたように(日本には内村鑑三(かんぞう)によりダルガスのことばとして紹介されている)、スリースウィ戦争敗戦後の復興をスローガンに、農・工業において著しい変質をきたす。1866年に始まるソネHans Christian Sonne(1817―1880)の主唱する共同組合運動から始まり、1882年には共同酪農協会が設立され、農業の革新が準備された。さらに運輸技術の革新によってアメリカ大陸とロシアから安い大量の穀物が西ヨーロッパへと流入し、従来の穀物中心の農業は大打撃を受けた。

 デンマークはこの打撃を回避するため、それとは競合しない酪農業へと転じ、大産業国イギリスを市場としたバター、卵、ベーコンの生産に重点を移行。その際に共同組合活動が有効に機能した。組合によるバター、卵の品質管理、飼料の共同購入、根菜飼料によるブタ飼育(組合によるテンサイからの製糖、その絞りかすの飼料化)などの活動に、農産物加工を主体とする全国的工業化の基礎をみることができる。こうして、輸出先としてイギリスを中心とした朝食材料の輸出の成長を象徴するのが、ユトランド西岸の寒村でしかなかったエスビアウ港の国家事業としての建設、築港であり、酪製品、ベーコンなどの輸出港として同港は19世紀末から急成長を遂げた。

 従来、デンマークでは鉱産資源はわずかにセメントの原料の石灰岩と陶土のみできわめて乏しかったので、農産物はデンマークにとって最大の工業資源であった。1940年代に至るまでデンマークの産業は農業に依存し、1970年代に入って工業がそれと並ぶ。1980年代に入ると、農業の比重が下がったものの、農産物加工の規模および生産性は世界的であり、農機具生産ももっとも発達していた。工業生産額は国民生産のうちでは農業の2倍を超した。その輸出に占める割合は農産物加工を基礎とするものがあるとはいえ、全輸出額の約3分の2にあたっていた。

 デンマークでは1980年の総人口512万4000人をデンマークの史上最大人口とかつてみなし、1991年には508万6000人、2010年には500万を割るという人口動向の見通しをしていた。1970年代初期のエネルギー危機の影響を引きずって、1980年代はこのような先行きの人口減少の見通しが経済、社会全般に暗い影を投げかけていた。

 しかし、1972年に発見された北海油田からの原油は、1990年代に入ってデンマークをヨーロッパ第3位の産油国とし、天然ガスをも含めて国内エネルギーの自給を可能にした。また、1991年には輸出国にも転じ、東西ドイツ統一の影響による労働市場の活況化も相まって、世相は明るさを取り戻した。そして現実に2002年の人口は536万8354と、上向きになっている。このようにデンマークでは1980年代前半の見通しと比較し、1990年代以降の現実および経済的、社会的な認識は明るい方向へと大きく変化している。

[村井誠人]

農業

かつても、また今も「農業国」のイメージのあるデンマークであるが、実際には農業人口は5%を下回り、約8000人の漁民や少数の鉱業・採石業を加えても、第一次産業人口が全就労者の5%に満たない(4.6%)。今やデンマークでは就業者の68.9%が第三次産業に従事し、もはや「サービス産業国」となっている(1995)。しかし、デンマークの農業の食糧生産量は約1500万人を養うことが可能であるといわれ、1戸当りの農業経営規模は農業人口の減少と反比例して、1982年で26ヘクタール、1988年で33ヘクタール、1994年で39ヘクタールに増加し、より商業的色彩を強めている。EU内にあってブタをはじめとする家畜生産が特化され、家畜頭数の上昇をみ、1993年にはデンマーク人口の2倍に達している。現在、デンマークの農業はEU内の農業政策のなかに組み込まれ、また環境問題への関心から、冬期農耕地の65%を「緑色化」することが推進されている。19世紀にわずか国土の4%であった森林は、植林により11%(2000)となり、木材の国内需要の半分を補っている。漁業は、漁獲量138万5247トン、漁獲額34億0630万クローネ(2001)で、主要魚種はタラ類、ヒラメ類、サケ類、シシャモ、などである。淡水魚労は成立せず、漁獲の一部は輸出される。

[村井誠人]

工業

デンマークの工業は、伝統的に比較的小規模な会社、工場によって支えられている。第二次産業就業者数は35万2000人(1993)で、その4割は重化学工業に従事し、そのほかは食糧品、印刷、繊維・縫製業などの多岐にわたる職場に分散している。デンマークの第二次産業にかかわる国際的名声のある企業は、カールスベア(醸造業)、ノボノルディスクファーマ(医薬)がヨーロッパのトップ500社に入り、ほかにレゴ(玩具)や商船会社であるA.P.モラー・マースクも有名である。一般的にいうなら、国際的大製造業はないに等しいが、手工業的な陶磁器、銀器などの生産の国際的評価は高い。

 国内にエネルギー源を産出しなかったデンマークは、輸入に頼らざるをえず、1973年には国内消費の95%を輸入石油に頼っていた。しかし1960年代に埋蔵が知られるようになったデンマーク領海内の北海の天然ガスおよび油田は、1972年に採掘が開始され、イギリス、ノルウェーに次ぐ西欧内第3位の採掘量を得るに至り、石油、天然ガスともに国内自給を可能としている。1991年より輸出も開始した。また石油から石炭へと原料を移行させていた火力発電所のための石炭輸入に対しては、依然としてエネルギーの輸入超過状況が続いているものの、近年のうちに石油などの輸出がさらに拡大されて、エネルギー収支もプラスに転ずるものと考えられている。デンマークでは原子力エネルギーへの移行の兆しはまったく見受けられず、国内に原子力発電施設はない。風力発電の導入が進んでおり、総電力生産の20%近くを占めている(2006)。

[村井誠人]

貿易と国際収支

1990年代に入って石油、天然ガスの国内自給化が実現していくことと相まって、経済的見通しははるかに改善されてきた。

 1993年のデンマークの貿易は、輸出総額3268億クローネ、輸入総額2561億クローネ、貿易収支は707億クローネの黒字であり、この黒字基調は1987年以来連続している。輸出額は国民総生産の35%にあたり、輸入額は国内需要の29%にあたる。農産品の3分の2、工業製品の50%が輸出と関連をもち、サービス業の20%が国外との関係に供される。貿易相手国は貿易額の多い順にドイツ、スウェーデン、イギリスの順であり、EU諸国が全体の50%以上を占め、アメリカ、日本もそれぞれ輸出額5.5%、3.9%、輸入額5.4%、3.6%でいずれも適当な出超を示す「よき」貿易相手国であり、そこには貿易摩擦は存在しない(1994)。

 デンマークは伝統的に「農業国」であったが(1946年、輸出額の62.6%は農産品が占めていた)、1961年にはじめて工業製品が輸出額において農産品に勝り、1990年代に入って輸出額の4分の3が工業製品となる。輸入においては1985年にエネルギー原料が18%であったものが、1992年に6.2%、1993年には5.9%と減少を続けている。これらに加え、1987年から1993年にかけて、デンマークでは賃金上昇の抑制、物価の低上昇が経済に有効に働き、デンマーク製品にヨーロッパ内での競争力をつけ、さらに、東西ドイツの統合によって、1990~1991年にはデンマークはドイツに大きな市場を得て、経済収支は良好となった。そういった背景のもと、従来、デンマークにとって最大の顧客であったイギリスとの貿易関係は、第二次世界大戦直後の1946年で輸出総額の31%を占めていたのが、1959年にはイギリス26%、旧西ドイツ21.4%、スウェーデン7.3%と推移し、いまやドイツが21.4%、スウェーデン10.2%、イギリス9.7%となっている(1994)。これらも「農業国」デンマークではなくなったことに大きな要因がある。

[村井誠人]

交通

デンマークの交通網は国土が狭いため、よく整っている。鉄道は1930年以来、原則的に首都圏の電車区を除いて敷設を停止し、経済効率の悪い路線は廃止され、現在国鉄の総延長は2132キロメートル(2005)である。幾多の海峡を優美な橋で結ぶことが、1930年代以降行われてきて、国内でただ一つ残った大ベルト海峡も1998年には開通をみ、さらに1999年8月にはシェラン島とスウェーデンを結ぶエアスン海峡橋が完成した。

 また、デンマークにおける交通手段の特徴として、自転車が依然として重要であり、統計上の「交通手段」として6.9%の数値があげられている。

[村井誠人]

社会

住民

住民はノルド系の人種で、北ドイツおよびスカンジナビア諸国と同質性を有し、北ゲルマン語系のデンマーク語を話す。出生率は13.4‰であり、平均寿命は男性76.2歳、女性81.0歳であるが、人口は1981~1984年の停滞期を経てふたたび増加へと向かっている。19世紀の初め92万9000の人口が、141万5000(1850)、245万(1900)、428万(1950)、495万(1970)、512万4000(1980)となった。ほぼこの数字を最大に、減少へ向かうと一時みなされたが、1985年に上向き、1995年には522万5000人、2000年には533万0020人となった。国内には1920年の北部スリースウィの祖国復帰以来、ドイツ人と自認する人々が国境地帯に居住し、スリースウィ党という政党を組織してきたが、1議席あった国会での議席を1965年以降失い、現在事実上、国内に少数民族問題は存在しない。

[村井誠人]

外国人労働者と失業問題

22万2746人の外国人がデンマークに在住し、国籍ではトルコ(3万5739人)、旧ユーゴスラビア(2万8081人)、パキスタン(6552人)、イラン(7174人)、スリランカ(5739人)の人々がおもに労働者として居住している(1996)。イスラム教徒の外国人労働者の増大は、福音(ふくいん)ルーテル派教会を国教とするこの国では多少なりとも文化的摩擦を引き起こすこともあったが、北欧、西欧からの外国人の居住者も増加し、外国人労働者イコール、イスラム教徒という図式は薄れてきた。

 1995年には6.8%であった失業率はその後の景気の回復により改善し、2001年には4.6%となっている。各種の学校の新卒者に失業が集中しており、18歳ごろからの親元からの完全独立という現象の定着や都市の住宅難と相まって、失業問題は依然として深刻な社会問題となっている。

[村井誠人]

家族

1994年にはデンマークの家族数は284万9341世帯で、そのうちの77%には17歳以下の子供はおらず、成人の一人世帯は全家族数の54.6%である。いまや、デンマークの平均的家族構成員数は2人であり、小家族化が進んでいる。「夫婦」世帯は全体の44.9%であるが、その内分けは結婚による夫婦が約8割を占めるものの、残りのほとんどは同棲(どうせい)で、1078の家族は同性による共同生活である。それらは1989年に法制化された「登録されたパートナーシップ」とよばれる同性間の「結婚」であり、その存在はいわば世界史的実例である。

[村井誠人]

社会保障

1849年憲法の貧窮者扶助の条項が、首都圏の防衛強化法案との妥協の産物として1890年以降実施に移されたが、1933年の社会改革によって国民保険、身体障害、生活保護に関する3法が成立し、高福祉国家への路線が敷かれた。1970年に始まる社会立法の整理は、1973年に疾病金庫が健康保険に改められ、原則として医療の無料化(医薬品、歯科治療には補助金交付)が企てられ、67歳からの老齢年金、障害年金、寡婦年金、労災保険、失業保険等々の整備が進み、1976年をもって現在に至る一連の社会立法は完成した。しかし、教育・社会福祉支出は公共支出の約45%に上っており、国家財政上の大きな負担となっている。

 デンマークは労働者の組織化がきわめてよく進んでおり、単産別労働組合のほとんどは「全国労働者同盟」LO(1898結成)に加盟している。

[村井誠人]

教育制度

1814年にデンマークでは7年制の学校教育制度ができ、1849年の憲法ではそれが全児童の義務教育制となり、1899年には教科別単位時間が制定され、教員養成制度も確立された。1903年の公立学校法によって中学校が設置され、それが1937年の国民学校法により農村部と都市部を区別した試験入学、無試験入学の2種の中学校に改組されたが、1958年の学校法により根本的に学校制度が全国的に統一された。

 1975年の国民学校法は翌年8月から施行され、義務教育の9年連続の小・中学校制を導入した(10年生クラスも備えられた)。生徒は9年生修了後、少数の社会人となる者を除き、大学などの進学を目ざすギュムナシウム(高校)、各種の職業学校(EFG)、10年生を経て2年間の高等教育準備コース(HF)へそれぞれ進学する。大学などへ進学する者は、卒業時のストゥデンター・エクサメン(大学入学資格者試験)やHF試験・HHX試験(商業系)・HTX試験(技術系)をパスする必要がある。大学生数は、商科、工科などのホイスコーレ(単科大学)や総合大学(3校)、学際研究を試みる大学センター(2校)などをあわせて15万1955人(1992)である。

 教育制度の枠外ではあるが、19世紀のドイツ文化に対峙(たいじ)した国民主義的思想から生まれたおもに農村の若年男女のための全寮制教育機関は国民高等学校(または国民大学)folkehøjskoleとして世界的に有名であり、私立学校組織ながら教職員の給与には国家補助が出ている。これをモデルにガーナやインドでも同様の学校ができている。

[村井誠人]

文化

非北欧的北欧

ヨーロッパの「縁辺に位置している」afsidesbeliggendeといわれるデンマークの地理的位置は、その文化を考えるうえで重大な意味をもつ。ヨーロッパの文化的潮流に対して近年までつねに受け身の立場にあり、時代の進展とともに紹介される新潮流と以前に導入されていた潮流との葛藤(かっとう)が、この国の文化の基調である。北欧全体のなかでみれば、デンマークはヨーロッパ中央諸国への漸移帯に位置するため、もっともヨーロッパ的色彩を強く有し、非北欧的要素を宿命的にもち、それでいて「北欧」であろうとする複雑な文化景観を呈する。アイスランドで民族の事績がアイスランド語で書かれたのに対し、同時期にサクソ・グラマティクスは『ゲスタ・ダノールム(デーン人の事績)』をラテン語で書いた。16世紀には、ルターのドイツ語訳聖書に倣って、北欧で初めてピーダーセンChristiern Pedersen(1475ころ―1554)が『クリスティアン3世の聖書』としてデンマーク語訳聖書を著した。

 民族ロマン主義が「北欧民族」であるという自己認識をデンマークに呼び覚ます以前には、デンマークは文化的に国際的色彩を有していた。科学では天文学者のティコ・ブラーエやレーマーが、文学では「デンマークのモリエール」と称されたホルベアが有名であった。絶対王制の確立以来、官僚層はホルシュタイン地方など南部出身のドイツ語使用者が多く、宮廷・上流階級ではドイツ語を日常語とした。また教会など精神的領域においてもドイツ的な形式、傾向が主体であり、19世紀のロマン主義はドイツ文化に対する反発を、北欧民族の一員であるというデンマーク民族意識の出発点とした。

[村井誠人]

近代デンマーク文化の原形

1802年にステフェンスHenrik Steffens(1773―1845)の講演によってもたらされたシェリング哲学は、ドイツ的色彩を排していく政治運動を生み、北欧が他地域とまったく異質であったビーキング(バイキング)時代へと精神的に回帰し、デンマークはそれ以前の啓蒙(けいもう)主義的国際性を排除していった。エーレンスレーヤー(エーレンシュレーガー)の詩『金の角笛(つのぶえ)』(1802)以来、現実においてロマン主義的な対ドイツ闘争が、敗戦(1864)によって生じた復讐(ふくしゅう)の野望が消滅することになるプロイセン・フランス戦争のフランスの敗北(1871)まで続き、その間ロマン主義的潮流の時代が存在した。このロマン主義の時代に、現在に至るデンマーク文化の原形が成立した。

 宗教界ではキリスト教と「デンマーク国民」とを結び付けた牧師詩人グルントビーと著作家・哲学者キルケゴールが登場し、後者は思索的に深く個人に沈潜しすぎてデンマーク的な伝統にはなりえなかった。童話作家アンデルセンもこの時期に活躍する。文芸批評家ブランデスが1872年の講演によってロマン主義の長き存続を論難し、フランスの実証主義をデンマークに紹介した。それを契機に1870年代から自然主義の文学作品がデンマークや北欧全域に次々と登場、ヤコブセン、ドラックマンらが後続し、その後の新ロマン主義も含め、北欧文壇は国際的評価を得るに至った。ポントピダンやイェンセンがノーベル文学賞を受賞し、演劇・映画の分野においても確実にデンマーク的なものがムンクやドライヤーによって呈示された。

[村井誠人]

近年の潮流

1870年代以降の小国としての認識は、平和主義的傾向をデンマークに帯びさせ、力としての権威を放棄させる伝統となり、国民の気質、生活様式に大きな影響を及ぼした。1968年「若者の蜂起」を経験したデンマーク社会では、国家権力、親権、男性の優越性などを疑問視し、新しい家族観をはぐくみ、観念的な性道徳の否定、男女平等、言論・表現の自由が世界中でいちばん実現されている国となっていった。これらは「国民高等学校運動」に次いで、平和主義と並んで北欧が他地域に影響を及ぼすべき第二の文化的潮流といえるであろう。

[村井誠人]

日本との関係

近年、デンマーク人の日本に対する関心、知識は浅くなく、ラッシュアワーに代表される人口過密現象、優秀な工業製品を生み出す工業力、それに伴う深刻な公害国のイメージが、学校教育、マスコミによってすっかり定着した感があるが、日本を理解する日本研究者も少数ながら存在する。

 他方、日本では1911年(明治44)の内村鑑三(かんぞう)による『デンマルク国の話』の講演によって、ダルガス(本来はホルスト)の「外に失いしものを内にて取り戻さん」というスリースウィ戦争敗戦直後の徹底した平和主義が紹介されている。ことに第二次世界大戦後の日本の進むべき道として平和主義が掲げられ、そのモデルとしてダルガス父子による開墾・植林活動が戦後教育の教材に採用された。このことは日本においてデンマークのイメージを構成し、高めるのに役だった。しかしそのダルガス論は本来、聖書理解のための講話であり、ダルガスのことば、長男名と次男名の混同、植林技法の発明等々に事実との相違が存在する。ところが、戦前から多くの人々によってそのダルガス論は換骨奪胎されながら繰り返し語られて、デンマーク像の根幹をなすに至った。そうしてできあがったデンマーク論は、1864年の敗戦後の復興を、経済的状況の変化、協同組合活動の進展などを捨象して、ダルガス父子や、さらに、大正・昭和前期には繁栄した農業国を創出したとしてグルントビーやコールChristen Kold(1816―1870)の国民高等学校の功績などを強調することにより、精神主義的な偉人伝にすり替えられてしまっている。

 さいわい既成のデンマーク像は、けっしてマイナスのイメージとはならなかった。しかし童話作家アンデルセンの祖国として、またその自然の牧歌的景観から、単純化されて形成された童話の国のイメージは、現実に機能する国家としての存在を多少なりとも薄めていることは否めない。現実における日本とデンマークとの関係は、幕末の修好通商条約、1871年(明治4)のデンマークのストア・ノーディスケ・テレグラフ(大北電信会社)による中国大陸と日本との間の海底ケーブル敷設など、けっして浅くはない。デンマークは日本の文明開化に貢献していたといえよう。また、内村の平和主義のモデルとされたデンマークを、スリースウィ戦争の敗戦後の1873年(明治6)に訪れた岩倉具視(ともみ)の率いる遣外使節がかの地でみたものは、「ドイツ人を恨み、9世必報の志慨(ママ)を」もっていた人々であった。外国の事象をモデルに何かを学ぼうとするときに、外国文化受容の受け皿により、みえるべきものが異なる好例であろう。

[村井誠人]

『百瀬宏著『北欧現代史』(1983・山川出版社)』『在デンマーク日本国大使館編『世界各国便覧叢書 デンマーク王国』(1989・日本国際問題研究所)』『岡本祐三著『デンマークに学ぶ豊かな老後』(1993・朝日新聞社)』『ヘリエ・サイゼリン・ヤコブセン著、高藤直樹訳、村井誠人監修『デンマークの歴史』(1995・ビネバル出版)』『百瀬宏・村井誠人編『北欧』(1996・新潮社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「デンマーク」の意味・わかりやすい解説

デンマーク
Denmark

正式名称 デンマーク王国 Kongeriget Danmark。
面積 4万2947km2
人口 584万7000(2021推計)。
首都 コペンハーゲン

ユラン半島北部と,スカゲラク海峡バルト海の間に浮かぶフューン島シェラン島,ロラン島,ボルンホルム島および周辺の島々からなる国。ほかに大西洋上のフェロー諸島グリーンランドを領有する。一院制立憲君主制。公用語のデンマーク語はほかの北欧諸語とともにゲルマン語派の北ゲルマン群(→ノルド諸語)を形成。国民の 8割はルター派プロテスタント信者(→ルター派教会)。国土は氷河に削られ,なだらかな平原と丘陵からなり,最高点でも標高 200mに達しない。ユラン半島西海岸は偏西風の影響を受け,曇天や小雨の日が多く,夏は冷涼(7月平均 16℃)であるが,冬は比較的温暖(1月平均 0℃)。東海岸地方は西海岸地方より寒暖の差が激しい。かつては農業と酪農が産業の主体であったが,1870年代に入って工業がおこり,第2次世界大戦後に急速に発展,1960年には工業生産が農業生産を追い抜くにいたった。食品,医薬品,金属,輸送機器をはじめ,衣類,木製品,家具,電気器具などを生産する。主要貿易相手国は,ドイツ,スウェーデン,オランダなど。21世紀に入って,産業の中心はサービス部門に移っている。1973年ヨーロッパ共同体 EC(→ヨーロッパ連合 EU)に加盟。小国ながら古い歴史と高い文化教育水準を誇り,優れた科学者,文化人が多数輩出。福祉制度,医療制度も全世界に知られる。北大西洋条約機構 NATO原加盟国。(→デンマーク史

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