ソン・ゴク・タン
Son Ngoc Thanh
生没年:?-1982
カンボジアの反仏,反王制,共和派の民族主義者。1942年僧侶や市民の反仏デモを指導して逮捕されたが,脱走して日本へ亡命した。45年3月の日本軍による仏印軍武装解除後,カンボジア新政府の外相に就任し,日本降伏後の政治空白期に首相となったが,10月再進駐してきたフランス軍に捕らえられ,反逆罪で禁固20年の判決を受け,フランスで服役した。カンボジア政府の交渉により政治活動からの引退を条件に釈放され,51年帰国したが,カンボジアの完全独立を求めて地下活動に入り,タイ国境付近で反政府派のクメール・イッサラに参画,指導者の一人となった。54年カンボジアが完全独立すると,シアヌーク国王に忠誠を誓ったが拒否され,タイへ亡命した。その後右派勢力に接近してシアヌークの中立政策などに反対し,72年ロンノル大統領の下で第1国務相(首相格)になったが,75年のロンノル政権崩壊後はベトナムへ逃れた。
執筆者:石沢 良昭
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「ソンゴクタン」の意味・わかりやすい解説
ソン・ゴク・タン
カンボジアの民族主義者,政治家。1942年反仏運動を組織して逮捕され,脱走して日本に亡命。1945年の日本軍による仏印軍の武装解除後,カンボジア新政府の外相。日本降伏後に首相となったが,1945年10月のフランス軍再進駐で逮捕され,反逆罪で禁錮20年の刑を受けフランスで服役した。カンボジア政府の対仏交渉で,1951年,政治活動からの引退を条件に釈放され帰国したが,完全独立を要求して地下に潜入,クメール・イッサラの指導者の一人となった。1954年のカンボジアの完全独立後は,シアヌーク国王と対立し,タイに亡命,シアヌークの中立政策に反対して右派勢力と結んだ。1972年のロン・ノル政権では第1国防相(首相格),1975年の同政権崩壊後はベトナムに亡命した。
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ソン・ゴク・タン
Son Ngoc Thanh
? - 1982
カンボジアの反仏・反王政・共和派民族主義者。
元・カンボジア新政府首相,元・クメール共和国第1国務相。
チャビン(ベトナム)生まれ。
1942年反仏デモを指導して逮捕されるが、脱走し日本へ亡命する。’45年日本軍の仏印軍武装解除後、カンボジア新政府外相を経て、首相となる。しかし、再進駐のフランス軍に逮捕され、禁固20年の判決でフランスで服役する。’51年釈放後、完全独立を求めて地下活動に入り、’54年独立後シアヌーク国王に忠誠を誓うが拒否されタイへ亡命する。’72年クメール共和国第1国務相となるが、’75年ロン・ノル政権崩壊によりベトナムへ逃れる。
出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内のソンゴクタンの言及
【インドシナ戦争】より
…同年8月日本軍が降伏するや,ベトナムでは反日抵抗組織ベトナム独立同盟会([ベトミン])が,インドシナ共産党の主導の下に各地でバオダイ政権からの奪権闘争を行い,9月2日ベトナム民主共和国を樹立した。一方,ラオスでは反仏組織ラオ・イッサラ(自由ラオス),カンボジアではソン・ゴク・タンSon Ngoc Tanh首相らが中心となって,3月の独立が再確認された。しかし9月に復帰したフランスは3国の独立を認めず,まずサイゴンの行政権を奪取し,翌46年南部ベトナムを切り離してコーチシナ共和国を成立させた。…
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