一般に,本国での政治的・宗教的・人種的迫害あるいはその恐れから逃れて,他国に保護を求める行為をいう。なかでも政治上の理由から他国に逃れる者を政治亡命者という。国民国家で個人は原則としていずれかの国家に属し,その属人的管轄のもとにある。このため政治的・宗教的信条の相違から迫害を受けたりする場合,他国に逃れてみずからを保護する必要が生じてくる。16世紀フランスで反新教徒による迫害から国外へ逃れたユグノー,17世紀イギリスからアメリカ大陸に移住したピルグリム・ファーザーズ,フランス革命期にみられた王侯貴族の亡命(亡命貴族émigré),ドイツの48年革命(三月革命)の際の自由主義者の亡命,1917年ロシア革命後,ソビエト体制に反対して国外に逃れたいわゆる白系ロシア人,ナチス・ドイツの迫害によって生じたユダヤ人や社会主義者,知識人の亡命など,戦争,革命,動乱,クーデタ,独裁政権などが発生する際に大量の亡命者を生みだしている。
亡命者(避難民)の問題を国際的に取り上げたのは国際連盟であった。1920年に設立された連盟は,ノルウェーの探検家F.ナンセンを亡命者救済の高等弁務官に任命し,主として,ロシア革命後のロシア人亡命者の救済にあたらせた。この200万人に及ぶ亡命者は国籍を剝奪されており,有効な旅券も所持していなかったことから,ナンセンは国際的に効力をもった身分証明書の交付の発行を訴え,連盟理事会で承認された(ナンセン旅券)。この旅券は有効期間1年であったが,亡命者の就職,再定住に,また第三国への入国査証取得に役立った。1951年にはジュネーブで〈亡命者(難民)の地位に関する条約〉が採択され(1954年4月発効),亡命者を通常の外国人とは区別し,相互主義を排し,庇護と権利の両面からその保護を図った。同じ51年には,国際連合に国連難民高等弁務官UNHCRが設立された。また,世界人権宣言(1948)は〈迫害からの保護を他国において求め且つ享有する権利〉を宣言している。
亡命者が逃亡犯罪人の場合には,犯罪人引渡しの制度に基づいて国際協力がなされる。また,政治犯に政治的保護を与えて亡命を容認するかしないかは,その国にゆだねられるが,〈政治犯罪人不引渡しの原則〉によって,退去を命ずることはあっても,当事国へ政治犯罪人を引き渡す義務を負わないことが条約や慣習で確立されている。日本は,亡命を政治的にも法律的にも認めておらず,基本的には亡命者を引渡し請求国に強制送還することになっていたが,1981年になって,ようやく〈亡命者(難民)の地位に関する条約〉を批准し,同年,従来の出入国管理令に代えて,〈出入国管理及び難民認定法〉を制定した。なお,亡命政権とは,国内での革命の勃発や他国による征服の結果,亡命した支配層が亡命先で政権を維持し,いくつかの国によって正統性をもつ政権と認められる場合をいう。第2次大戦中のロンドンには,ポーランド,ユーゴスラビア,フランス,ノルウェーなどの亡命政権が存在していた。PLOも事実上,パレスティナ人の亡命政権といえよう。
→難民
執筆者:星野 昭吉
デンマークの文学史家ゲオルク・ブランデスは,主著《19世紀文学主潮》全6巻(1872-90)の叙述を〈亡命文学〉の巻から始めた。そこでは,〈亡命〉とは,18世紀末のフランス革命によって従来の生活基盤を奪い去られた文学者たちの,現実社会に対する一定の姿勢を意味しており,必ずしも異国に逃れての営みを指してはいない。大きく変わった時流に抗して,あえて反時代的な態度を貫くことで,彼らはむしろ新しい19世紀文学の開拓者となりえたのである。ところが,こうしたいわば〈国内亡命〉ともいうべき現象に対するブランデスの着目とは裏腹に,ヨーロッパ19世紀は,いっそう明確な〈亡命文学〉の時代となった。ドイツ・ロマン派の代表的作家の一人,A.vonシャミッソーは,フランス大革命を逃れて故国を捨てた貴族の子だった。逆に,ドイツ詩人として知られるハイネは,封建的圧政のドイツを逃れて,60年の生涯の後半25年間をフランスに暮らさねばならなかった。同じくドイツを脱出してきたマルクスとハイネが親交を結ぶのも,パリでのことである。作曲家ショパンがポーランドからの亡命者だったことは,あまりにも有名である。1848年のドイツ・オーストリアでの革命の敗北,東欧各地の民族解放闘争の挫折,ロシアの圧政と反体制運動の広がりも,西ヨーロッパへの大量の亡命者を生んだ。
20世紀は,こうした状況をさらに拡大深化させる。日露戦争と1905年のロシア革命(第1革命)によって幕を開けた20世紀は,まさしく戦争と革命と亡命の世紀となった。ロシアから西ヨーロッパへ,中国やインドから日本へ,政治家や知識人が反対派権力の弾圧を逃れて亡命した。これが最も顕著なかたちをとったのは,いうまでもなく,ナチズムがドイツを支配した1933年以降のことである。市民権を剝奪され,強制収容所を逃れて国外に脱出したユダヤ人や社会主義者,自由主義者たちは,まずフランスやチェコスロバキア,スカンジナビア諸国に居を定めたが,これらの地域がナチス・ドイツに席巻されると,スペイン,ソ連,アメリカ合衆国,メキシコなどへと逃亡の旅を強いられた。社会主義者,共産主義者の多くはソ連へ逃れたが,彼らのうちかなりの数の者は〈粛清〉の犠牲となった。他の地域への亡命者たちのうちにも,困難と絶望のなかでみずから生命を絶った者が少なくない。だがその反面,これらの亡命者たちは,ただ単に逃亡の旅を続けただけではなく,20世紀の歴史に消しがたい足跡をしるしたことも確かである。スペイン内戦で共和国側に立って銃をとり,ナチス・ドイツに占領された諸国の地下抵抗運動に協力し,そうした活動を文学者たちは作品に描き,科学者たちは亡命地での研究活動を通じて対ドイツ戦争勝利のために奉仕した。とりわけ文学の分野では,この時期に,〈反ファシズム抵抗文学〉という新しい概念が生まれ,トーマス・マン,ブレヒトらの作家や,ルカーチ,ブロッホ,ベンヤミンらの批評家が,戦後の世界文学のなかで継承・発展させられることになる重要な仕事を残した。ナチス・ドイツの崩壊後,亡命者の多くは故国に帰ったが,亡命地に帰化した者も少なくはなかった。とりわけアメリカ合衆国に帰化したユダヤ人亡命者やその二世たちが,現在同国の文化のなかで果たしている役割は絶大なものとなっている(〈イディッシュ文学〉の項参照)。
執筆者:池田 浩士 ラテン・アメリカやアフリカ出身の作家のなかには,今日でも亡命を強いられている人が多くみられるが,ロシアも革命の前後を通じて,多くの亡命作家,詩人を生み出してきた。例えば《過去と思索》(1854-68)の著者ゲルツェンは,当時として急進的な思想のため逮捕追放のあと,1852年にロンドンへ亡命,文集《北極星》や新聞《コロコル(鐘)》を発行,ついに故国に帰ることはなかった。しかし,1917年の十月革命後,亡命は一挙に増大する。それは一般民衆の亡命を含めて,一説には150万人に達したという総数からみても当然であろう。すなわち,ブーニン,レーミゾフ,シュメリョフIvan Sergeevich Shmelyov(1873-1950),メレシコフスキー,ギッピウス,A.N.トルストイ,ソログープ,ザイツェフ,ツベターエワ,クプリーン,アンドレーエフ,ベルジャーエフ,シェストフら,世紀末のロシア文学の担い手の多くが西欧に亡命した。このなかでその後故国に戻ったのはA.N.トルストイ,クプリーン,ツベターエワだけである。これら革命直後の亡命以来,ソ連では長らく亡命することさえ禁じられていたが,1974年2月のソルジェニーツィンの国外追放以降は,主としてユダヤ系の作家たちに亡命のための出国が認められるようになった。こうしてマクシーモフ,ブロツキー,コルジャービン,アクショーノフ,アレシコフスキー,スビルスキーら多くの作家,詩人が出国した。第1次亡命の作家たちに比べてこれら新しい亡命作家たちは西側世界においてきわめて旺盛な創作活動を展開している。第1次亡命者たちの活動舞台はベルリン,パリであったが,最近はパリ,ニューヨーク,それにイスラエルとなっている。国際ペンクラブにも亡命作家のセンターがあり,故国を追われた作家たちの活動を支持している。
亡命が作家たちに与える影響は複雑である。例えば,ゲルツェンの場合はその自由な立場からの言論活動が当時のロシアに大きな影響を与えたが,これは帝政ロシアではたとえ亡命作家のものでもある程度受け入れる余地があったからである。しかし,ソビエト時代になってからは亡命作家の作品は禁書となり,ほとんど故国では受け入れられることはなかった。このような状況下では亡命作家の活躍もまたある種の制約を受けることになる。
とくにロシア語は西欧でも特殊な言語なので読者がきわめて限られるからである。ナボコフのように若いころに亡命して,フランス語や英語で執筆した作家は亡命先の文学界でも比較的容易に受け入れられた。最近は文化の国際化時代を反映して,亡命作家も以前よりは受入れ先の国での活躍の幅が広がっているが,音楽や絵画の場合と違い,亡命者の文学は依然としてきびしい状況下におかれている。
執筆者:木村 浩
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
本国政府からの政治的弾圧や宗教的・民族的理由による圧迫を逃れ、またはそれを避けるために外国に庇護(ひご)を求める行為をいう。現在個人は原則としていずれかの国家に所属し、そのため、外国にいる場合でも、その所在地国の法律や機関によって保護(国内的救済)が得られない場合には、本国政府の外交的保護を求めることができるはずである。しかし、亡命者の場合は、その保護を求めるべき本国の政府自体から弾圧、迫害を受けており、または受けるおそれが強いため保護が受けられず、不安な状態にある。無国籍者の場合でも、定住所地の政府から迫害を受けると同様の立場になる。refugeeの日本での公定訳は「難民」であるが、従来は亡命者と訳した場合もあり、難民はある程度まとまった集団の場合、亡命者は1人または少数の場合に用いられた。
亡命者・難民については、それゆえ国際的な保護が必要になる。第二次世界大戦後も、国際難民機関(IRO)が設けられたが、1951年国連難民高等弁務官事務所がその事業を継承した。1951年7月28日「難民(亡命者)の地位に関する条約」が結ばれ、1967年1月31日の議定書により補完された。同条約は、難民は迫害の待つ国に送還してはならぬとする「ノン・ルフールマン」の原則を定めており、日本も、同条約・議定書に1982年(昭和57)1月1日から加入し、出入国管理令を改定して「出入国管理及び難民認定法」とした。
[宮崎繁樹]
『宮崎繁樹著『亡命と入管法』(1971・築地書館)』
字通「亡」の項目を見る。
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