改訂新版 世界大百科事典 「パリアン」の意味・わかりやすい解説
パリアン
parian
スペイン統治時代のフィリピンで,おもにマニラの中国人居住地区を指した言葉。セブやナガ,ビガンなどの中国人居住地区や,マニラの日本人居住地区を指す場合もあったが,一般にはマニラのパシグ河口南岸沿いの中国人居住地区の呼称として用いられた。語源については,従来諸説があったが,現在はタガログ古語説が最も有力である。同義語として,しばしばアルカイセリーアalcaicería(スペイン語で〈生糸市場〉)が用いられたが,それはパリアンで中国人が取り扱った最大の商品が中国産生糸だったからである。スペイン人はフィリピンにいる中国人をサンレイSangley,Xanglaiと呼んだが,サンレイはスペインのフィリピン経営になくてはならない存在だった。彼らは中国からさまざまな商品を輸入して,植民者の消費生活を支える一方,ガレオン貿易の集貨を担当した。また,各種の中国人職人,医師,薬剤師などの存在も植民者の日常生活には不可欠だった。しかし,異教徒で経済力に勝る中国人が増大することは,スペイン政庁にとって脅威でもあったので,1582年に中国人の隔離居住地区としてパリアンを設置し,彼らの行動を監視するようになった。パリアン設置のもう一つの目的は,特別課税による財源の確保にあった。中国人は原住民より重いトリブート(貢税)を課せられ,さらに,輸入税に相当する三分税や滞留許可税を徴収された。
こうしたスペイン政庁の警戒的・抑圧的対中国人政策が原因で,17世紀には4次にわたる反乱がパリアンで発生し,それに対する弾圧が中国人大虐殺事件をひき起こした。パリアンの所在地は,創設時から1860年の解体命令時までに幾度か移動した。大別すると,(1)城壁都市マニラの市内にあった時期(1582-93),(2)マニラ城外東側のサン・ガブリエル地区にあった時期(1593-1784),(3)再度マニラ城内に置かれた時期(1785-1860)に分かれる。最盛期は1630~40年代で,居住人口2万,店舗数1000以上を数えた。しかし18世紀後半になると,中国人の居住地区制限は大幅にゆるめられたので,パリアンの存在理由は小さくなった。
執筆者:池端 雪浦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報