翻訳|Manila
フィリピンの首都。同国北部、ルソン島南西部のマニラ湾に臨む。人口158万1082(2000)。1948~76年の間は、北東に隣接するケソン・シティに首都が置かれた。1970年代に入って加速されたマニラ近郊の人口増加によって大首都圏が形成され、行政上もケソン・シティなど4市13町をあわせてメトロポリタン・マニラが設けられている。その人口は993万2560(2000)で、全人口の約13%を占める。フィリピンの政治、経済、文化の中心地で、陸海空の交通網の拠点となっている。同国最大の貿易港をもち、マニラ湾にはつねに多数の外国船がみられる。マニラの名物の一つは極彩色のジープニー(小型バス)であるが、交通渋滞が激しく、1984年にマニラを横断してカロオカンとパサイを結ぶ高架鉄道が開通し、大衆的交通手段として役だっている。
スペインとアメリカによる植民地支配の拠点であっただけに、アジアの諸都市のなかでも早くから西欧化された活気のある町として知られる。中心部にある旧城壁都市のイントラムロスは、太平洋戦争末期の激戦地であったため長く廃墟(はいきょ)となっていたが、旧市街地の復原が進み、観光名所の一つとなっている。ここにはカトリックのマニラ大聖堂やスペイン軍が築いたサンティアゴ要塞(ようさい)があり、その南の、独立の指導者ホセ・リサールの記念碑が立つリサール公園は国民的集会の場となっている。海岸沿いのエルミタ区とマラテ区には中級ホテルが集中している。パシグ川を4キロメートルほどさかのぼった所に大統領官邸、マラカニヤン宮殿がある。パシグ川下流の右岸は、かつては商業、金融の中心として繁栄を誇ったが、いまはさびれて昔日のおもかげはない。右岸でも河口に近いトンドはアジアの典型的なスラムとして知られる。マニラに流入した住民の30~40%は低湿地や空き地に住み着いて、不法居住者としての不安定な生活を送っている。
マニラの南東に接するマカティは、1960年代からアヤラ財閥の手で開発され、フィリピンの金融、商業の中枢機能が集中している。整然たる大ビル街と高級住宅地区が交錯し、高級ホテルも多く、華やかなショッピング街が広がる。北東のケソン・シティは、1930年代に首都として計画的に建設された都市で、国会議事堂や官庁のほかに国立フィリピン大学など大学が多い。
[高橋 彰]
マニラはフィリピン諸島のなかでもっとも早く開けた国際的交易地の一つで、16世紀前半にはイスラム文化北進の拠点になっていた。しかし、1571年にスペインがこの地をフィリピン植民地の首都として定め、パシグ川の南岸に城壁都市(イントラムロス)を建設した。城壁都市は政庁関係建造物、教会、修道院、スペイン人住宅などで占められ、経済活動は、城壁都市外の中国人居住地区パリアンや、パシグ川北岸のトンド地区で営まれた。マニラの国際的交易活動は、長らく、メキシコ―フィリピン間の大帆船(ガレオン船)による貿易(ガレオン貿易)と、アジア諸国、とくに中国との貿易に制限されていた。しかし、七年戦争の余波で、1762~64年の間、マニラがイギリス東インド会社に占領されたことや、メキシコの独立によって、1815年にはガレオン貿易が続行できなくなったことなどから、1834年にマニラは欧米諸国の船舶にも開港された。1898年フィリピンの領有権がスペインからアメリカに移って以降、マニラの相貌(そうぼう)は著しくさま変わりした。アメリカは政府関係建造物や銀行、商社、歓楽街などを城壁都市外に大規模に建設して、マニラを消費文化の中心地とした。第二次世界大戦中、日本のフィリピン占領の末年(1945)に、マニラはアメリカ軍の大規模な爆撃を受け、城壁都市の大半も壊滅した。
[池端雪浦]
フィリピン共和国の首都。人口158万,メトロ・マニラの人口1035万(ともに2003)。ルソン島南西部,天然の良湾マニラ湾の東岸に立地し,パシグ川が東西に流れて市内を南北に二分する。年平均降水量は1791mm,その大半が南西モンスーンの卓越する6~11月に集中する。ルソン島屈指の農業地帯である中部ルソン平野と南部ルソンの丘陵地帯を後背地にもつ。
1571年にスペイン総督レガスピが植民地経営の根拠地をここに移して以降,300年以上にわたりスペインのフィリピン支配と極東におけるスペイン・カトリック権力の中枢で,かつメキシコと東洋を結ぶガレオン船の母港であった。またスペイン人到来以前から中国人商人が訪れ,16~17世紀には日本の商人も訪れ,日本人町(南洋日本人町)が形成された。当時はパシグ川河口左岸に築構された城郭都市イントラムロスIntramurosが中心で,そこには要塞はもとより総督府,大司教府,カトリック各派教会,大会堂,市会会館,公立学校,大学,病院などが立ち並び,スペイン人のみがこのなかで生活した。フィリピン人や中国人集落(パリアン)はその周辺に配置された。1834年のマニラ開港後国際貿易がしだいに活発化し,城郭の外側が繁栄して19世紀末までに人口20万の大都市に成長した。アメリカの領有後もさらに発展が続き,植民地特有の首位都市の傾向をいっそう強めた。イントラムロスの成長は19世紀末までに限界に達し,都心機能を果たすのは無理となった。第2次大戦中の破壊がひどく,戦後はいち早く一大スラムと化してしまった。こうして戦後期までにでき上がったマニラの都心部は,パシグ川右岸の卸売業,小売業,金融機関の集中するビノンド,サンタ・クルス,キアポ地区,大統領宮殿のあるサン・ミゲル地区と,左岸に展開する新しい官公庁地区,ホテル,高級ショッピング街のエルミタ,マラテ地区とが連担したものであった。
マニラ港はパシグ河口をはさんで北港と南港に分かれ,前者に内航船,後者に外航船が接岸するが,この港湾地区と都市地区の間にはさまれたトンド,ニコラス,イントラムロス地区がスラムを含む低所得階層の住宅地帯を形成し,パシグ川沿いのパコも中級住宅地区からしだいに下級住宅地区化した。他方,高級住宅地区はケソン・シティ,サン・フアン,マカティMakati町などマニラ郊外へと東進した。市域面積が32km2でしかないマニラの発展が,早くから市域を越えて隣接市町に拡大したことはいうまでもない。とくにそれが顕著となるのは1950年代以降であった。例えばマニラ市の人口は1948年から80年にいたる32年間に98万から163万へと65万の増加をみたにすぎないが,ケソン・シティでは11万から117万へと10倍以上の大幅増加をみたし,カロオカン,マカティなどの周辺地域も同様であった。こうして60年代には大マニラ,首都圏マニラという新しい概念が登場し,75年にはついにマニラ市を含む4市13町が合併,ここにメトロ・マニラが公式に誕生し,マルコス大統領夫人イメルダがその初代知事に就任した。この間に都心地区の分化が起こった。1960年代から建設が始まっていた近代都市マカティに,金融機関,外国企業,在外公館,高級ショッピング・センター,ホテル,レストラン街といった近代的CBD(中心業務地区)構成要素がすべて吸収され,ビノンドやエルミタ地区の成長力がおおいに減退した。
執筆者:梅原 弘光
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フィリピン共和国ルソン島の中部西岸にある都市。1571年にスペインが根拠地を築いて以来,フィリピンの中心都市。首都機能は1976年に4市13町を合併して誕生したメトロ・マニラにある。天然の良港に恵まれ,国際貿易港として発展した。スペイン統治期に城郭都市イントラムロスが建設され,周囲に中国人居住区などの商業地区が形成された。1898年のアメリカ領有後,城郭都市外に首都機能が拡大し,パシグ河北岸が金融・商業地区として発展した。1942~45年の日本占領の末期に集中砲火をあびて疲弊し,戦後マカティ副都心に金融・商業の中心が移った。地方人口の流入などの人口増加に対処しきれず,スラム化,大気汚染などの都市問題に悩まされている。
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フィリピンのルソン島南西部マニラ湾に臨む都市。16世紀後半からスペインのフィリピン植民地化の拠点となり,メキシコ・中国との交易で繁栄。17世紀初期にはディラオ,サンミゲルの二つの日本町も成立した。1898年米西戦争の結果アメリカの領有となり,市街はめざましい近代化をとげたが,第2次大戦中日本軍が占領,末期の大規模爆撃により壊滅的打撃をうけた。戦後は首都圏が拡大,日本の企業進出や観光客も多い。1975年ケソンなど4市13町をあわせてメトロ・マニラが誕生,初代知事にイメルダ・マルコス大統領夫人が就任した。フィリピン共和国の首都。
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