朝日日本歴史人物事典 「め組の辰五郎」の解説
め組の辰五郎
江戸の町火消しいろは四十八組のうちのめ組の鳶人足の頭。芝浜松町3丁目又右衛門の子。小柄なところから「豆辰」といわれた。文政2(1819)年2月16日,芝神明の境内で妹をつれて香具芝居を見物中に相撲取り九竜山扉平と喧嘩になり,死傷者を出した。辰五郎当時22歳。死んだのは辰五郎の同僚富士松32歳。この事件は講釈の「め組の喧嘩」として大きくあつかわれ,文政5年1月江戸市村座で2代目瀬川如皐によって脚色上演,明治5(1872)年1月には中村座で河竹黙阿弥が「恋慕相撲春顔触」として劇化した。明治23(1890)年3月には新富座で黙阿弥の高弟竹柴其水が「神明恵和合取組」として実名で劇化。辰五郎を演じた5代目菊五郎の当たり芸となり,代々の音羽屋の家の芸となった。<参考文献>田村成義編『続々歌舞伎年代記』
(渡辺保)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報