百科事典マイペディア 「ライプチヒの戦」の意味・わかりやすい解説
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…9月のテプリッツTeplitz協定で,ロシア,プロイセン,オーストリアの3国が,相互安全保障,ライン同盟解体とともにドイツ諸邦の君主主権の承認を約したことがこれを物語る。 13年10月16日から19日にかけてのライプチヒの戦(狭義の諸国民戦争)が,解放戦争中最大の決戦となった。この都市に集結する19万のフランス軍を,プロイセン,オーストリア,ロシア,スウェーデンの連合軍25万が攻撃,当初優勢だったナポレオンも18日のザクセン軍の寝返りのため劣勢となり,からくも包囲線を脱して敗走した。…
…加盟邦(当初16ヵ国)は,それぞれ主権は保有するがフランスと攻守同盟を結び,各邦派遣の軍隊(総計6万3000人)によるフランスへの援助を義務づけられた。ティルジットの和約(1807)以後中部・北部ドイツにも拡大,加盟邦36ヵ国,兵力12万に達したが,ライプチヒの戦(1813)でナポレオン軍がオーストリア・プロイセン軍に敗れると,これを境に,加盟邦が相次いで対仏連合軍側に転じたため解体した。【末川 清】。…
※「ライプチヒの戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」