改訂新版 世界大百科事典 「解放戦争」の意味・わかりやすい解説
解放戦争 (かいほうせんそう)
Befreiungskriege[ドイツ]
1813-14年にヨーロッパ諸国が連合してナポレオン1世の制覇体制を崩壊させた戦争。諸国民がフランスからの民族的な解放と独立のために戦ったので解放戦争と呼ばれるが,また諸国民戦争ともいう。
ナポレオンがモスクワ遠征に失敗し,追撃するロシア軍が1812年末ドイツ国境に接近したとき,プロイセンは,ナポレオン側に従軍していた自国軍隊の中立化をロシアに約束(タウロッゲンTauroggen協定),ついで13年2月ロシアと同盟を結んだ(カーリッシュKalisch条約)。プロイセンは他方で,シャルンホルストの指導下で軍制改革を断行して民兵や義勇兵の組織化を図り,3月17日に対仏宣戦を布告した。ロシアとプロイセンの連合軍は,5月のグロースゲルシェンとバウツェンの二つの戦いでフランス側に敗れ,6月初めに一時休戦に入った。この間に,オーストリア,イギリス,スペイン,ポルトガルの諸国が連合国側に参加し,ここに第6次対仏大同盟が完成した。オーストリアは,民衆蜂起やロシアの征服欲を助長するのを恐れて,かねてよりメッテルニヒを中心に和平工作を進めていたが,交渉は決裂して8月対仏宣戦布告に踏み切った。それ以降は,当初の民衆の力による国民的な解放の路線は後退して,王朝解放戦争としての性格を強めるようになった。9月のテプリッツTeplitz協定で,ロシア,プロイセン,オーストリアの3国が,相互安全保障,ライン同盟解体とともにドイツ諸邦の君主主権の承認を約したことがこれを物語る。
13年10月16日から19日にかけてのライプチヒの戦(狭義の諸国民戦争)が,解放戦争中最大の決戦となった。この都市に集結する19万のフランス軍を,プロイセン,オーストリア,ロシア,スウェーデンの連合軍25万が攻撃,当初優勢だったナポレオンも18日のザクセン軍の寝返りのため劣勢となり,からくも包囲線を脱して敗走した。これを転機にライン同盟参加諸邦は相ついでフランスから離反し,13年末にはナポレオン軍はライン以西に撤退を余儀なくされた。
他方,13年11月末オランダ解放,14年1月デンマークの連合国側参加,同時期のイタリアにおけるフランス勢力の後退,2月イギリス・スペイン連合軍のピレネー越えによる南仏進出など,連合国側の攻勢が続き,3月31日パリを占領,4月初めナポレオン帝政は崩壊し,ブルボン王政が復活した。5月20日のパリ講和で戦争は終結,連合国側は戦後処理をウィーン会議にゆだねたが,その最中エルバ島を脱出してフランスの政権を回復したナポレオンの大軍を15年6月,ワーテルローの戦で連合軍が撃破し,ナポレオンの野望を挫折させた。他方,ウィーン会議は,メッテルニヒの主導のもとに主要国の君主主権の回復,領土の再配分,ドイツ連邦の創設などによって,ナポレオン体制崩壊後のヨーロッパの秩序を確立したが,解放戦争で燃え上がったドイツ・ナショナリズムの〈自由と統一〉の念願は実現しなかった。帝国主義に対する民族解放の戦いについては,〈民族解放戦争〉の項を参照されたい。
執筆者:末川 清
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報