ラシード・リダー
Rashīd Riḍā
生没年:1865-1935
シリアのカルムーニー(現,レバノン領)生れのイスラム思想家。頽廃したイスラム東方諸国を復興させようとの意欲に燃え,エジプトでムハンマド・アブドゥフの弟子となる。1897年,師の協力を得て《マナールal-Manār》誌をカイロで発刊(1936年まで。なお同誌の最終号は1940年刊)。同誌を,厳格な正統主義・復古派の立場からイスラム改革思想の宣伝の拠点とした(イスラム復興運動)。イスラム復興のためには民族・国家・信仰・行動の結合が必須であると説き,ジハードのための行動プログラムと政治哲学とを提唱し,後のムスリム同胞団の運動に大きな影響を与えた。《コーラン注釈》《カリフ制》などの著作がある。
執筆者:藤田 進
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ラシード・リダー
Rashīd Ridā
1865 - 1935
イスラム思想家。
カルムーニー(後のレバノン領)生まれ。
頽廃したイスラム東方諸国を復興させようとムハンマド・アブドゥフの弟子となり、1897年「マナール」誌を師の協力で発刊し、厳格な正統主義・復古派の立場からイスラム改革思想の宣伝の拠点とする。ジハードのための行動プログラムと政治哲学を提唱し、イスラム復興のためには民族や国家、信仰、行動の結合が必須であると説く。著書に「コーラン注解」「カリフ制」など。
出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内のラシードリダーの言及
【サラフィーヤ】より
…[アフガーニー]の政治的行動主義と結合したイスラム改革の要求も,サラフィーヤに支えられていた。サラフィーヤの思想の体系的展開は,[ムハンマド・アブドゥフ]と[ラシード・リダー]によって与えられた。サラフを預言者の教友にのみ限定せず,より広くスンナ派イスラム発展期の伝統のうちにこれを求め,アシュアリーやマートゥリーディーらもサラフだとしつつ,サラフの合理的精神に沿ってシャリーア(イスラム法)のリベラルで柔軟・斬新な再解釈を示そうとしたムハンマド・アブドゥフに対し,ラシード・リダーは師の思想を厳格な正統主義の方向に転換していった。…
【パン・イスラム主義】より
…しかし戦後,カリフ制廃止をめぐっては,インドで強力な[ヒラーファト運動]が起こった。[ラシード・リダー]の《マナール》誌の活動は,カリフ制なき後のイスラム世界統合の希求に支えられていた。 第2次世界大戦後では,一時パキスタンが明確にパン・イスラム主義をうたい,イスラム世界会議Mu’tamar al‘Ālam al‐Islāmī(1926年メッカで創設,31年以降アミーン・アルフサイニーを議長としてエルサレムに本部を置いた)の本部をカラチに移した。…
【ムハンマド・アブドゥフ】より
…95年以降アズハルの組織と教育内容の改革に努力し,99年立法会議議員に指名されるとともにエジプトの最高[ムフティー]となると,マーリク派の立場でマスラハ(社会的利益)とタルフィーク(適用の工夫)を重視しつつ,利子・配当,食物,衣服などに関して弾力的法解釈による[ファトワー](意見書)を発した。この間,改革思想を体系的に示すため,弟子の一人[ラシード・リダー]の協力を得てタフシール(コーラン注釈)の完成を目ざしたが,未完に終わった。理性と啓示との調和を説く立場,帰国後の政治的漸進主義,ヨーロッパ文化への関心は,[ムータジラ派]とか親英派などという非難も生んだが,合理主義の立場で伝統を革新することこそ,父祖(サラフ)の時代の真に本源的なイスラムの精神を復興することであると説き,[サラフィーヤ]の近代主義的展開に礎石を据え20世紀イスラム改革思想に決定的方向づけを与えた。…
※「ラシードリダー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」