エジプトのイスラム改革思想家。ナイル・デルタの小農の家庭に生まれたが,アズハル学院に学び,1877年アズハルで講じるほか,官吏・教員養成のため新設されたダール・アルウルームの教師ともなった。この間アフガーニーの思想的影響下で立憲運動に加わり,79年故郷に追放されたが,翌年カイロに戻って官報編集長となり,民族運動を支える指導的ウラマーの一人としてアラービー運動に積極的に参加した。82年革命の敗北により逮捕され,国外追放となり,84年亡命先のパリでアフガーニーと協力して《固き結合》誌を刊行し,ムスリム世界への扇動に従事した。85年ロンドンからチュニスを経てマフディー派勢力下のスーダンに潜行を企てて果たさず,ベイルートで活動した。88年許されて帰国,裁判官となるが,これ以後は政治行動を離れて国民教育に専念した。95年以降アズハルの組織と教育内容の改革に努力し,99年立法会議議員に指名されるとともにエジプトの最高ムフティーとなると,マーリク派の立場でマスラハ(社会的利益)とタルフィーク(適用の工夫)を重視しつつ,利子・配当,食物,衣服などに関して弾力的法解釈によるファトワー(意見書)を発した。この間,改革思想を体系的に示すため,弟子の一人ラシード・リダーの協力を得てタフシール(コーラン注釈)の完成を目ざしたが,未完に終わった。理性と啓示との調和を説く立場,帰国後の政治的漸進主義,ヨーロッパ文化への関心は,ムータジラ派とか親英派などという非難も生んだが,合理主義の立場で伝統を革新することこそ,父祖(サラフ)の時代の真に本源的なイスラムの精神を復興することであると説き,サラフィーヤの近代主義的展開に礎石を据え20世紀イスラム改革思想に決定的方向づけを与えた。
執筆者:板垣 雄三
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1849?~1905
エジプトのイスラーム改革思想家。アズハル学院在学中からアフガーニーに師事し,政治活動に加わる。アラービーの反乱後国外に追放されたが,1888年の帰国後はイスラームとヨーロッパ近代文明が本来矛盾しないことを説いて,シャリーアの改革と徹底によるウンマの復興を唱えた。99年以降エジプト最高位のムフティーに就任。イスラーム世界全体に多大な思想的影響を残している。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…アフガーニーの政治的行動主義と結合したイスラム改革の要求も,サラフィーヤに支えられていた。サラフィーヤの思想の体系的展開は,ムハンマド・アブドゥフとラシード・リダーによって与えられた。サラフを預言者の教友にのみ限定せず,より広くスンナ派イスラム発展期の伝統のうちにこれを求め,アシュアリーやマートゥリーディーらもサラフだとしつつ,サラフの合理的精神に沿ってシャリーア(イスラム法)のリベラルで柔軟・斬新な再解釈を示そうとしたムハンマド・アブドゥフに対し,ラシード・リダーは師の思想を厳格な正統主義の方向に転換していった。…
…擬制的たてまえとして所有権移転や買戻しを前提としていた質権の概念は,すでに不動産質の諸形態の展開の中でほとんど抵当に近接する形式をさえ生み出してはいたが,ヨーロッパの法典に基づく混合裁判所はいとも簡単にシャリーア(イスラム法)のリバー禁止の規定を乗り越え,抵当権の思想を確立してしまった。ムハンマド・アブドゥフは近代の現実に直面するそのファトワーにおいて,ムスリムも利子や配当を受け取ることができる場合について認定した。現代の〈イスラム経済〉論において,利子の問題は,私的所有権やザカートと並んで最も重要な争点の一つである。…
※「ムハンマドアブドゥフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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