ゲオルク
Georg der Reiche, Herzog von Sachsen
        
              
                        [生]1471.7.28. マイセン
[没]1539.4.17. マイセン
ドイツ,宗教改革時代のザクセン公 (アルベルト系) 。「髯公」 der Bärtigeもしくは「富裕公」 der Reicheとあだ名された。 1500年公に即位以来,国家財政の改善にすぐれた手腕を示し,また教会生活の純化にも意を用いたが,彼が主宰した M.ルターと J.エックのライプチヒ討論会後,宗教改革運動の断固たる敵手,北部ドイツにおける旧教勢力の指導者となり,T.ミュンツァーの率いる農民一揆を撃破した。
                                                          
     
    
        
    出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
	
    
  
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ゲオルク(敬虔候)
              
                        生年月日:1484年3月4日
ドイツの宗教改革を支持した辺境伯
1543年没
                                                          
    
    
        
    出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
	
    
  
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		世界大百科事典(旧版)内のゲオルクの言及
    		
      【演出】より
        
          
      …近代文明社会の成熟によって演劇は急激に商品化していき,特定の俳優を舞台の前面に押し出すことに腐心し,全体の調和を高めることは忘れがちであった。このスター・システムを排して舞台に統一をもたらしたのは,ドイツのザクセン・マイニンゲン公ゲオルク2世だった。1874年から90年にかけて彼の劇団マイニンゲン一座はヨーロッパ各地の都市を巡演したが,その集団的演技による群衆処理と写実的な演出は,各国の近代劇運動に大きな影響を与え,数多くの新しい演出者が登場してきた。…
      
     
    		
      【マイニンゲン一座】より
          
      …ドイツのマイニンゲン大公ゲオルク2世Georg II(1826‐1914)がみずから主宰した[宮廷劇場]。ゲオルク2世は1866年に即位すると,オペラ劇場を廃し,演劇に全力を傾けた。…
      
     
    		
      【ザクセン】より
          
      … ところで,1485年の家産分割に際してこのウェッティン家の領土は2系に分けられ,エルンスト系Ernestinerは選帝侯位とウィッテンベルク,ならびにチューリンゲンの大部分を,他方のアルベルト系Albertinerはマイセン辺境伯領と旧プライセンラントなどを領有することになった。これ以後,両系のウェッティン家はそれぞれ別個の政策を追求し,例えば,宗教改革に際して,エルンスト系の[フリードリヒ3世]賢侯(在位1486‐1525)がルターを支持し庇護したのに対し,アルベルト系のゲオルクGeorg der Bärtige(在位1500‐39)はそれに反対し,彼の死後はじめて同系の支配領域にも改革が導入された。また,エルンスト系が遺領分割を通じていっそう細分化していったのに対し,アルベルト系は逆にその領土を拡大することができた。…
      
     
         ※「ゲオルク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。 
        
    出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
	
    
  
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