デジタル大辞泉
「ウオリック」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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ウォリック(伯家)
ウォリック[はくけ]
Warwick, Earls of
イギリスの貴族の家柄。征服王ウィリアム1世がフランス時代からの臣下ベローモントを伯爵に叙したのに始り,婚姻その他の事情から,1267年ビーチャム家に移った。トマス・ビーチャム (1401没) は,1388年リチャード2世の寵臣貴族たちを弾劾し失脚させた5人の「告発貴族」の一人で,そのため,97年報復を受けてロンドン塔に幽閉され,ビーチャム塔にその名を残した。その子リチャード・ド・ビーチャム (1382~1439) はヘンリー5世に従って百年戦争に活躍した。その後は,リチャードの娘婿ネビル家のリチャード・ネビル (ウォリック〈伯〉 ) が 1449年伯爵位を継承。彼のあとは娘婿クラレンス公ジョージ (クラレンス〈公家〉 ) に権利が移り,その長子エドワード・プランタジネット (75~99) が継承した。 87年 L.シムネルが彼の名をかたって王位を要求したため,ヘンリー7世の命令で顔見世のため一日中ロンドンを引回された。もうひとりの王位僭称者 P.ウォーベックの脱獄の相談に乗り,それをみずからヘンリー7世への陰謀と主張したため,斬首された。彼の死から約半世紀後の 1547年ジョン・ダッドリー (のちのノーサンバーランド〈公〉 ) が叙爵して復活され,その刑死後は3男アンブローズ (1528?~90) が継いだが,彼の死とともにとだえた。一方 1618年ロバート・リッチ (59~1619) が伯爵位を授けられ,その長男の2代ウォリック (伯)は清教徒革命に提督として活躍したが,1759年にはリッチ家も断絶,同年あらためてフランシス・グレンビルが伯家を興し,以後その子孫が継承。
ウォリック(伯)
ウォリック[はく]
Warwick, Richard Neville, 1st Earl of
[生]1428.11.22.
[没]1471.4.14. バーネット
イギリスの貴族。ソールズベリー伯の子であったが,1449年結婚によってウォリック伯となり広大な領地を獲得した。バラ戦争中の 1455年5月ヨーク派にくみしてランカスター派を破り,フランス沿岸のイギリス領カレーの軍司令官に任じられ,1460年そこからイングランドに進出してランカスター朝のヘンリー6世を破り捕虜とした。1461年ヨーク公エドワードを奉じてロンドンに入城,エドワード4世として即位させ,さらにランカスター派を追って決定的な勝利を収めた。のち国王と対立し,1470年フランスに逃れてヘンリー6世の妻マーガレットと和解してイングランドに攻め入り,エドワードを追放してヘンリーを復位させた。そのため「国王製造人」の異名を得た。しかし翌 1471年北イングランドに再上陸したエドワード軍とバーネットで会戦,戦死した。
ウォリック(伯)
ウォリック[はく]
Warwick, Robert Rich, 2nd Earl of
[生]1587
[没]1658.4.19. ロンドン
イギリスの植民地行政家,提督。リッチ家ウォリック伯の第2代。清教徒で早くから植民活動に情熱を注ぎ,北アメリカのバージニア会社,ニューイングランド会社創立に関与,1628年マサチューセッツ湾開発の特許を得る。 42年長期議会により海軍司令長官に任じられ,清教徒革命中,海軍を議会側につかせた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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ウォリック
Warwick
イギリス,イングランド中部のウォリックシャーの州都。地名は古英語のwæring(堰)とラテン語のwic(村)にちなむ。人口11万9000(1993)。エーボン川に沿い,周辺農村の市場中心であると同時に,農業機械,フィルムなどの工業も発展。もとは渡津(としん)集落であったが,914年にアルフレッド大王の娘,エセルフレッドがデーン人の侵攻に備えて要塞化。現在の城は1330年ころウォリック伯が建設,17世紀に邸宅に改造された。1694年の大火にもかかわらず,市内には二つの市門,聖メアリー教会,レスター病院など,中世からチューダー朝にかけての建築物が多く残る。
執筆者:長谷川 孝治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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