ミフ(読み)みふ(英語表記)Павел Александрович Миф/Pavel Aleksandrovich Mif

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ミフ」の意味・わかりやすい解説

ミフ
みふ
Павел Александрович Миф/Pavel Aleksandrovich Mif
(1899?―1939?)

ソ連中国問題専門家。中国名は米夫。ウクライナユダヤ人の家庭に生まれる。1917年の十月革命後コムソモール、続いて共産党で活動し、中国問題の専門家となる。26年中国においてソビエト結成を唱え、スターリンに反対されたことは有名。28~30年モスクワの孫逸仙大学長となり、中国の革命家を養成した。31年上海(シャンハイ)で開かれた中国共産党中央委員会総会に出席。33~34年にはコミンテルン出版物で中国問題を論じ、『ソビエト大百科事典』(第1版、1926刊)の「中国」の項目の監修者を務めた。のち逮捕、粛清されたといわれる。

[藤本和貴夫]

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世界大百科事典(旧版)内のミフの言及

【陳紹禹】より

…安徽省人。武昌の中華大学在学中,学生運動に活躍,1925年中国共産党に入党,同年党からモスクワの中山大学へ留学生として派遣され,27年一時帰国,のち再びソ連に行き,中山大学の党部を掌握して,スターリン派のミフの支持の下に,当時かなり多数を占めていた留学生中のトロツキー派の粛清に奔走した。29年帰国し,モスクワ留学生派の領袖として,李立三路線に反対し,31年1月の党第6期4中全会で李立三ならびに瞿秋白(くしゆうはく)らを徹底的に批判して党の指導権を掌握,6月党総書記の地位についた。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」